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2021年05月30日02:44

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【読書ノート】我が家にいること『ノスタルジー』バルバラ・カッサン

 著者であるフランスの哲学者、バルバラ・カッサンは父祖の代からの南仏育ちで、同じフランス領とはいえ、地中海のコルシカ島が故郷ではない。コルシカに居を構えたのは、人生半ばからにすぎない。
 にもかかわらず、そのコルシカにおいて彼女は歓待されてると感じ、その島にこそノスタルジーを感じている。

 ということは、ノスタルジーとは、一般に「望郷」と和訳されるような故郷への思いのみではないとうことだ。そういえば、この書のサブタイトルは「我が家にいるとはどういうことか」であった。

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 その前に、彼女に即して、この「ノスタルジー」の語源的探索を済ませておこう。
 「しかし、ノスタルジーはギリシャ語ではない」と彼女はいう。それは、17世紀後半、ドイツ語圏のスイスで見いだされた「病名」だというのだ。 
 ジョン・ホーファーという19歳の青年は、バーゼル大学へ医学論文を提出するのだが、そのなかに、ベルリンから来た学生が次第に衰弱するのでベルリンに帰したところ回復したとか、また、入院中の農婦が帰宅を強く望むので帰したところ病が癒えたという事例を載せているという。

 ノスタルジアが、ドイツ語圏のスイスで発見された病名であったとは面白い。
 日本で作られたアニメの「アルプスの少女」では、フランクフルトから来たクララは、アルプスで麻痺しているし、逆に山の娘・ハイジは、フランクフルトで不調を訴える。

 まあ、そんな事例を引かなくとも、ノスタルジーに近い英語が「ホームシック」で、ちゃんと「シック」であることが明示されている。

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 さて、カッサンは古代ギリシャの最大の叙事詩・オデュッセウスを題材にその故郷との関係を見てゆく。 
 オデュッセウスはは長い旅の末、故郷へ戻る。しかし、彼は妻からも、飼い犬からも自分を求めてもらうことができない。何よりも、彼自身がそこを故郷と実感することができない。やがて、時が相互の隔たりを埋め、やっと彼は故郷へ受け入れられる。
 しかし、それは同時に彼の旅立ちのときだった。彼には二重のノスタルジーがあったのだ。オデュッセウスのノスタルジー、それは、故郷イタケーへの想いをもち続けること、そして、冒険者、ノマド、世界市民であり続けることであった。どこにいてもわが家にいて、どこにいてもわが家にはいない、それがオデュッセウスのノスタルジーであった。

 ついでカッサンは、トロイア戦争の敗北者であり、ギリシャから追放され放浪の末、イタリアの地に至り、そこでローマの建国に関わるアエネアスをとりあげる。
 彼は、このイタリアの地こそ、実は自分の父祖のルーツであることを知り、この地に新たな建国をと思い立つのだが、それはもはやトロイアの再生ではなく、新しいものの追求となる。そのため彼は、トロイアの言葉=ギリシャ語をあえて採用せず、その地の言葉、ラテン語での出発とする。

 ローマにとっての外国人であるアエネアスは、ローマの人びととともに、新たな故郷を創設したのである。
 ここには、当時のヨーロッパ文明の先進国・ギリシャの言葉を押しいただかないという「統一言語」に関する問題もあるが、それを踏まえたままで次章のハンナ・アーレントへと進められる。

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 アーレントは、ユダヤ系ドイツ人として生を享けたこともあって、ナチの台頭により1933年にはフランスへの亡命を余儀なくされ、更にフランスがナチの手に落ちるや、41年にはアメリカへ脱出せざるを得なくなる。こうして、51年にアメリカ市民権を得るまで、18年間の無国籍難民の生活を強いられたのであった。
 
 晩年、ドイツ時代について郷愁を感じる対象は何か?と問われた彼女は、それは「母語」だと答えている。彼女にとっての母語はドイツ語である。しかし、あえてドイツ語と言わず母語と表現したのは、母語とは、国や所属する民族の言葉ではなく、自分がそれに囲まれ、それを習得し、そのことによって自分の周囲に共生関係を生み出したそんな言語のことであることを言おうとしたのだろう。

 ようするに、どれか特定の言語の優越性を語ろうとしたのではなく、それぞれの人が習得した言語がそれによって世界へと参入する可能性を開くことを言おうとしているのだろう。そしてそれは、特定の言語を特別視する、例えばハイデガー、ドイツ語はギリシャ語にもっとも近く、「存在」を顕わにできるといった言語観を退けるものでもある。

 これは同時に、バベルの塔のような統一言語への否定でもある。言語の複数性は人びとの複数性の原因であり結果でもある。
 様々な言語のうちで、人は世界との関わりを産み出す。そして、それぞれの言語には他の言語と対応しうる面と対応しない面とがある。これが、翻訳可能性と不可能生の問題である。

 そして、これらの言語と人間の複数性をあってはならないものとして抑圧するのがグロービッシュ(グローバルイングリッシュ)のような統一言語への要請である。この立場は、世界においての偶然性を否定し、すべてを必然性のうちに置こうとする志向にも通じる。
 この立場によって失われるのは、文学と哲学である。なぜなら、文学や哲学は、人間と世界の、論理性、必然性、法則性からつねにはみ出すもの、その過剰、余剰、余白、他者性のうちにこそ棲息しうるものだからである。

 ようするに、「世界の揺れ動く曖昧さ」(カッサン)こそが、私たちが実存するそのリアルな土壌なのである。そして、これへの否定と抑圧こそが、全体主義的思考というべきであろう。
 カッサンのアーレントへのシンパシーは、彼女自身が母語はフランス語と異なるものの、アーレント同様、ユダヤ系フランス人であることと重なる。

 まとめとしていえることは、ノスタルジー(望郷)とは、決して場所としてのそれを指すものではないということである。そうではなくて、自分との共生関係全般が可能になる場(地理的な場所ではない)を指しているということである。

 以上がきわめて恣意的なこの書のまとめであるが、前半のオデュッセウスやアエネアスに関する部分はあまり自信がない。理由ははっきりしている。私自身が、こうしたヨーロッパの古代史、その頃に書かれた古典への知識について、きわめて曖昧だということである。
 では、アーレントについてはどうかといわれるとこれも不確かであるが、多少は読み込んでいるのでそんなに外れてはいないだろうと小さな声で付け加えておこう。


 *なお、同書の目次は以下の通りである。
  ・コルシカ的歓待について
  ・オデュッセウスと帰郷の日
  ・アエネーイス ノスタルジーから流浪へ
  ・アーレント 祖国としての言語をもつこと

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