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2021年01月24日23:50

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1月18日が忌日である人々

1646年(正保2年12月2日)、戦国時代から江戸初期にかけての武将、細川忠興(ほそかわ ただおき)が83歳で亡くなりました。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称しましたが、大坂の陣後に細川氏へ復しました。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築きました。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人の細川三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖。
1957年、植物学者の牧野富太郎が94歳で死去。「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威です。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っています。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日(5月22日)は「植物学の日」に制定されています。
1982年、女優の三益愛子が東京女子医大病院で膵臓癌のため死去。享年71。夫は直木賞作家の川口松太郎。川口との間には三男一女があり、俳優の川口浩は長男にあたります。戦後、母物映画で一世を風靡し、「母物映画女優」と呼ばれました。1929年(昭和4年)に上京。1932年(昭和7年)には松竹専属となった榎本健一の劇団『ピエル・ブリヤント』に入りエノケンの相手役をつとめました。翌年には、古川緑波もいた松竹傘下の喜劇集団『笑いの王国』に招かれ、芸名を三益愛子に変えて看板女優となりました。1934年(昭和9年)には太秦発声映画で映画初出演し、その翌年に東宝に入りました。戦前は舞台だけでなく、映画でもコメディエンヌとして活動しました。1959年(昭和34年)、菊田一夫の舞台『がめつい奴』で主役の「お鹿ばあさん」役を演じて、大ヒットとなります。上演日数270日、上演回数371回のロングラン記録を作りました。この演技で芸術祭賞、テアトロン賞を受賞。1976年(昭和51年)、東映『横浜暗黒街 マシンガンの竜』で菅原文太の母親として親子でマシンガンを撃ちまくる麻薬強盗役を演じました。母親役で一世を風靡しましたが、実生活ではそうもいかなかったようで、子供たちが次々と事件を起こして逮捕されました。
1999年、司会者の土居まさるが膵頭部(すいとうぶ)がんのため渋谷区神宮前の自宅で死去。58歳没。文化放送アナウンサーからフリーに。本名、平川巌彦(ひらかわ よしひこ)。野球中継実況アナウンサーから、深夜放送のディスクジョッキーに転向、彼が最初に担当した『真夜中のリクエストコーナー』は、日本初の深夜放送ラジオ番組と言われます。その後、『ハローパーティー』『セイ!ヤング』などのパーソナリティで人気を博します。1979年 - 1994年の16年間にわたり、テレビ朝日『象印クイズ ヒントでピント』の司会などでも名を馳せました。ただ口調や人柄に一癖あったので、好き嫌いは分かれるようです。人そのものは謙虚だったそうですが。
2003年、プロレスラー、興行主のザ・シーク(本名、Edward George Farhat)が故郷のランシング近郊のミシガン州ウィリアムストンにて心不全により76歳で死去。日本のプロレスファンにとっては長い間「幻の強豪」でしたが、1972年9月、馬場も猪木も抜けた日本プロレスに初来日。坂口征二から一度はUN選手権を奪っています。その後は新日本プロレス、全日本プロレス、FMWに来日。これは自らトップスターであったデトロイト地区での興行が下火になったからでしょう。特に全日本では、年末の「世界最強タッグリーグ」でアブドーラ・ザ・ブッチャーとコンビを組んでいました。後に仲間割れを演じましたが。デトロイトではボボ・ブラジルをエースに据え、自分はトップヒールとして100回以上対戦していますが、ブラジル不在時は自分がベビーフェイスになっていました。
2010年、タレントのミッキー安川が肺炎のため死去。76歳没。本名は安川実(やすかわ みのる)。 晩年はラジオ関東に連日連夜出ずっぱりでした。自分でスポンサーを見つけてくるので、リスナー他からのクレームもへっちゃら。言いたい放題の毎日でした。横浜高等学校を経て、1952年6月に単身渡米。シンシナティ大学に入学しましたが、英語力の問題からいったん自主退学させられ、テネシー州マウンテン市の知人の家に身を寄せ、小学校4年生のクラスに編入して英語を2ヶ月間学びました。この時、「小便と大便は同時には出ない」と言うクラスメートと賭けをし、自分で同時に排泄してみせたそうです。180cmの大柄な体躯で、アメリカ人相手に喧嘩に明け暮れました。1959年、映画『花嫁さんは世界一』(新藤兼人監督)で俳優デビュー。テレビ東京の『TVフォーカス』では、事件の現場へすぐさま直行し取材する名物リポーターとしても活躍。同局では、他にロスアンゼルス・サンダーバードチームの『ローラーゲーム』実況や、ゴルフ番組の解説を担当。暴力的取立てが社会問題となった金融業者の杉山会長との画面上のバトルは壮絶でしたが、実は二人は仲が悪いわけではなく、口げんかも事前に打ち合わせをしていたものであったそうです。なお、人間、死期が近づくと丸くなり、大人しくなるものですが、立川談志とこのミッキー安川だけは例外でした。
2016年、俳優、前進座の歌舞伎役者、4代目中村梅之助が肺炎のため死去。85歳没。2015年5月の前進座国立劇場公演、『人情噺文七元結』の家主甚八役で出演したのが最後の舞台となりました。父は三代目中村翫右衛門。歌舞伎に無縁な世間一般の人にとっても、テレビ朝日で4年間にわたって放映された『遠山の金さん捕物帳』や『花神』(1977年)での大村益次郎 役をはじめとしたNHK大河ドラマでお馴染みでしょう。前進座を脱退した俳優、ベーシストの中村梅雀の父。
2018年、噺家の2代目古今亭志ん駒が心筋梗塞のため、東京都内の病院で死去。81歳没。5代目志ん生に入門した最後の弟子。高座に上がるだけでなく、アニメの吹き替えや時代劇『大江戸捜査網』の「早耳金太」役を長く務めるなど役者としても活躍していました。別名「ヨイショの志ん駒」。
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