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2024年05月22日11:38

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もう一つのメインコンテンツ → 《復刻》 中世史私論 その149 「民衆の動きと経済の発展 年貢の銭納化」

 東国でも民衆が力を伸ばしてきたということは、別の面からいえば、これまで発ちくれがちであったこの地方でも、経済の動きが活発となってきたということになります。もちろんそれは純粋に明州だけにかかわることではなく、むしろ地侍(じざむらい)・国人(こくじん)たちを核とする地方経済の発展の問題なのです。そうした動きを象徴的に示す事象の一つは、年貢が貫文(かんもん)高で表示され、実際に銭で納められるようになったことでしょう。さきにふれた称名寺(しょうみょうじ)領の下総国毛呂郷(もろのごう)の、永享11年(1439)の年貢は20貫文、うち寺納は6貫900文でした。おなじ年の称名寺領下総(しもうささ)国「赤岩三ヶ村」の年貢米13石(こく)5斗も、代23貫266文、100文別5升(しょう)8合(ごう)の計算で寺納されていました。100文あたり5升8合という換算値は、はなはだ米価高で領主側に有利といわなくてはなりませんが、銭納できたということは、現地で米の高値売却が可能だったということです。
 おなじ年、「赤岩十四ケ村」の年貢も80貫、寺納69貫600文と記されているので、大勢として年貢の銭納化が、すすんでいるといえます。上野(こうずけ)の新田(にった)郡今井郷(群馬県新田郡)などでは、14正規末の永徳〜応永年間の岩松氏の手による検地は、年貢額をすべて貫高で示しています。嘉吉年間(1441〜44)の常陸の法雲(ほううん)寺領田宮郷(茨城県新治郡)の年貢収納目録でも、百姓名ー田地面積ー年貢貫文額、という記載方式がとられています。

 これらの事例は、関東地方のように経済の後進的な地帯でも、年貢が貫文高で表示され、実際にも銭貨で納められたのが事実であることをはっきり示しています。京都の領主のもとに納める年貢なら遠隔という輸送条件からして銭納ということもありますが、法雲寺のような現地の寺院領主、あるいは岩松氏のような現地の黒人領主の年貢も、あきらかに銭で取られているのです。

 年貢が代銭納されるからといって、それをただちに農民経済の商品経済化と同一視するわけにはいきません。しかしそれは少なくとも農民から現物で納められた米その他の物資が、現地で代官などの手によって売り払われ、商人から銭を手に入れることができる関係が成立していることを前提としています。それだけ地方での商人活動も活発になっていたのです。

※ 2023年5月8日の投稿文をup to date.


参考文献

 『荘園』 伊藤俊一(著) 中央公論新社
 『荘園史研究ハンドブック』 荘園史研究会(編) 東京堂出版
 『世界大百科事典』 加藤周一(編) 平凡社
 『国史大辞典』 瀬野精一郎(担当編集)  吉川弘文館
 『日本中世の世界1 中世社会の成り立ち』 木村茂光(著) 吉川弘文館
 『日本の時代史』 全30巻 吉川弘文館
 『日本史大事典』 全7巻 平凡社
 『室町時代』 脇田 晴子(著) 中公新書


 次回金曜日は「品川湊の繁栄」
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