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2021年01月24日23:48

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1月18日が誕生日である人々

885年(元慶9年)、第60代天皇、醍醐天皇が生まれました。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源維城といっていました。寛平5年(893年)4月2日立太子。この際に、父宇多天皇から剣を下賜されたことが、現在にも続く壺切御剣の始まりといわれています。父帝の訓示「寛平御遺誡」を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せます。その治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになりました。しかし昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷した昌泰の変は、聖代の瑕と評されることになりました。天皇はまた和歌の振興に力を入れ、延喜5年(905年)には『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じています。自身も和歌を良くし、勅撰集に都合43首が入っているほか、家集『延喜御集』も編んでいます。天皇の権威が非常に高かったことから、後世、後醍醐天皇は「醍醐」の名を冠しています。延長8年6月(930年7月)に清涼殿落雷事件が起きるとこれ以後体調を崩し、9月22日にはいよいよ病篤きによって皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位。その7日後の29日に出家すると同日崩御しました。宝算46。
1439年(永享11年)、室町時代の武将、室町幕府6代将軍足利義教の子、足利義視が生まれました。文明9年(1478年)に応仁の乱が発生すると、義視は兄の義政・日野富子・義尚らとともに東軍に属し、6月には牙旗を下され主将となりました。義視は東軍から山名氏の縁者を追放し、山名方に通じたとして奉行衆飯尾為数を誅殺しています。翌応仁2年(1468年)11月13日に室町第を脱走して比叡山延暦寺に出奔、ついで山名宗全の西軍に与しました。西軍では擬似幕府(西幕府)が創設されて「公方様」「相公(将軍)」と呼ばれました。文明9年(1477年)、西軍が解体された11月11日に子の義材を伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命しました。長享3年(延徳元年、1489年)3月26日に9代将軍義尚が長享・延徳の乱で遠征先の近江で死去すると、義視は義材と共に4月13日に上洛し、娘のいる京都三条の通玄寺に入りました。4月27日に通玄寺で出家をして道存(どうぞん)と号します。この頃は義政が政務をとっていましたが、8月に卒中で倒れ、10月8日には再度倒れました。翌延徳2年(1490年)1月7日に義政は病死。7月5日、義材は10代将軍となり、自らは将軍の父(大御所)として政務を執りました。延徳3年(1491年)1月7日、死去。
1689年、フランスの哲学者、シャルル・ド・モンテスキューが生まれました。本名は、シャルル=ルイ・ド・スゴンダで、ラ・ブレードとモンテスキューを領地とする男爵でもありました。1721年には、匿名で『ペルシア人の手紙』を出版。1734年、『ローマ人盛衰原因論』、1748年、『法の精神』を出版。社会学の父と考えられています。法とは、「事物の本性に由来する必然的な関係」であると定義し、権力を分割しない統治形態による法からは、政治的自由が保障されないと考え、執筆に20年かけたと言われる自身の著作『法の精神』の中で、政治権力を立法・行政・司法に三分割する「三権分立論」(「権力分立論」)を提唱しました。晩年は、視力の減退に悩まされました。そんな中、著作『百科全書』の為に「趣味論」の執筆に取り組みましたが、完成することは無く1755年2月10日にパリで逝去。
1867年(慶応2年)、ジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家の宮武外骨(みやたけ がいこつ)が生まれました。明治・大正期にはジャーナリストとして、政治家や官僚、行政機関、マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及しました。日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えました。また、活字によるアスキーアートを先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディや言葉遊びを執筆したことでも有名。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学(東京大学)に明治新聞雑誌文庫を創設しました。当初は比較的穏健でしたが、反骨精神に富み自ら新聞・雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁・差し止め処分を受けました。明治22年(1889年)、『頓智協会雑誌』で大日本帝国憲法発布をパロディ化して不敬罪に問われ禁錮3年の実刑判決を受けます。未決勾留日数の刑期算入も認められず、投獄は3年8ヶ月に及びました。それからは官僚を宿敵と見なし、活発な権力批判を行うようになりました。その後も検挙投獄は3回に及びました。また雑誌は数多く創刊しましたが比較的短命なものが多く、1号のみの廃刊誌は実に17を数えます。外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、明治34年(1901年)に大阪で創刊されました。明治41年(1908年)10月、当局は『滑稽新聞』に対して発行禁止命令を出しました。外骨は発行禁止に先んじて173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌としました。大正4年(1915年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し「政界廓清(かくせい)・選挙違反告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。落選運動の走り的存在といえます。結果は259票と、法定得票には辛くも到達しましたが落選。大正5年(1916年)、月刊誌『スコブル』を創刊し軌道に乗せました。その後吉野作造の民本主義に傾倒し、大正8年(1919年)3月には雑誌『民本主義』を創刊。しかし創刊からわずか4日後に即発禁処分となり廃刊させられています。昭和2年(1927年)、博報堂の創業者で外骨の友人瀬木博尚の寄付により、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立されました。外骨は事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、吉野作造とともにその充実に貢献しました。終戦後もGHQによる検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判。昭和30年(1955年)7月30日に文京区駒込追分町の自宅で死去。享年89。
1882年、ロンドン生まれのスコットランド人で、イギリスの児童文学作家、ファンタジー作家、推理作家、詩人、劇作家のA.A.ミルン(Alan Alexander Milne)が生まれました。日本では童話、童謡の作品が有名。代表作は『クマのプーさん』シリーズ、『赤い館の秘密』など。1956年1月31日に死去。
1889年、陸軍軍人の石原莞爾が生まれました。戸籍上は17日生まれとなっています。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られます。 関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者ですが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れました。,満洲国建設を指揮。昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立ちました。昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていきました。現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館総長・中川小十郎が新設した国防学講座の講師として招待されました。太平洋戦争に対しては、「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはありませんでした。『世界最終戦論』(後に『最終戦争論』と改題)を唱え、東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与えます。一方で、熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていません。極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れました。昭和24年(1949年)春、肺炎になり、肺水腫や膀胱癌などを併発。病状は悪化。
8月15日に死去。
1892年、アメリカの俳優、コメディアン、映画監督のオリヴァー・ハーディが生まれました。スタン・ローレルとともにお笑いコンビ「ローレル&ハーディ」として活躍していました。1957年8月7日に65歳で没。
1904年、イギリス出身の俳優、ケーリー・グラントが生まれました。本名はアーチボルド・アレグザンダー・リーチ(Archibald Alexander Leach)。アルフレッド・ヒッチコックのお気に入りで、『断崖』『汚名』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』の4本に出演しています。1986年、アイオワ州ダベンポートでの劇場ショーのリハーサル中に倒れ、病院に運ばれましたが脳卒中で急逝。
1913年、アメリカの俳優、歌手、コメディアンのダニー・ケイが生まれました。本名はデーヴィッド・ダニエル・カミンスキー(David Daniel Kaminsky)。1941年のブロードウェイ・ミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク(Lady in the Dark)』(音楽:クルト・ヴァイル、詞:アイラ・ガーシュウィン)に出演し、さらに同作品中のわずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する『チャイコフスキー(とその他のロシア人)』という曲で大絶賛を浴びました。さらに、彼の才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いにより映画界入りを果たし、1944年に『ダニー・ケイの新兵さん』で映画デビューを飾ります。以降、『ダニー・ケイの天国と地獄』や『虹を掴む男』、『ホワイト・クリスマス』、『五つの銅貨』等、数々の映画に出演。独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博しました。1954年には国連のユニセフに参加、以後亡くなるまで親善大使として尽力します。1987年3月3日、ロサンゼルスにて心臓発作で死去。76歳。
1925年、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズが生まれました。20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人であり、ジャック・デリダなどとともにポスト構造主義の時代を代表する哲学者とされます。ただし、同時代のあらゆる哲学者にとって他称でしかない「ポスト構造主義」というカテゴライズについて、ドゥルーズ本人は否定しています。ドゥルーズは、数学の微分概念を哲学に転用して、差異の哲学を構築し、スコトゥスの存在の一義性という視点から、ヒューム、スピノザ、ベルクソンらの著作を読み解きました。精神科医で哲学者でもあるフェリックス・ガタリとの共著のなかで、戦争機械、リゾーム、器官なき身体(これは作家、劇作家のアルトーの言葉から発したもの)等の「概念」を次々と創造していきました。いまだその概念の可能性のすべては汲み尽くされていないとされます。これらの理論はニーチェ、ベルクソンにその源流を持つ「生成の哲学」とも言うべきもので、日本の思想界にも大きな影響を及ぼしました。1995年11月4日、70歳で没。
1934年、芸能プロモーターの稲川素子が生まれました。株式会社稲川素子事務所代表取締役。50歳を過ぎて外国人専門の芸能事務所稲川素子事務所を設立する。65歳の時に、かつて在学中の手術で中退を余儀なくされた慶應義塾大学文学部へ再び入学し、70歳の時に卒業。学士(文学)。在学中はドイツ文学を専攻。その後、東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム(HSP)国際社会科学専攻修士課程修了、同大学院博士課程修了。女性事業家・世界中の外国人タレントを持つという経験から、各種講演・テレビ出演もこなしています。絵本作家でもあります。
同じく1934年、占星術師の錢天牛(せん てんぎゅう)が生まれました。雑誌の連載で私と生年月日が同じ人が運勢を問うたところ、「素晴らしい! 何をやっても成功する。特に芸能人などは最高」と答えていました。占いで良い運勢を言われたのはこの時だけです。大外れでしたが(笑)。2000年1月1日に死去。
1944年、シンガーソングライター、作詞家、作曲家の小椋佳が生まれました。本名:神田紘爾(かんだ こうじ)で、東大法学部卒業後、日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現:みずほ銀行)入行。銀行マンとして証券部証券企画次長、浜松支店長、本店財務サービス部長などを歴任。定年するまでエリートサラリーマンとシンガーソングライターを兼業していたわけです。他の歌手への提供曲も多く、1975年の「シクラメンのかほり」(歌:布施明)は第17回日本レコード大賞などを受賞しました。その他、「俺たちの旅」・「時」・「俺たちの祭」(歌:中村雅俊)、「愛燦燦」(歌:美空ひばり)、「夢芝居」(歌:梅沢富美男)、「十六夜だより」(歌:三橋美智也)などがあります。作詞のみを担当した曲としては「憧れ遊び」、「愛しき日々」、「遥かな轍」(作曲・歌:堀内孝雄)、「山河」(作曲:堀内孝雄、歌:五木ひろし)、「白い一日」(作曲・歌:井上陽水)があります。作曲のみを担当した曲では「匠」(歌:三橋美智也)があります。また、アニメーション『銀河英雄伝説』のエンディング曲、校歌・市歌・社歌なども数多く手掛けています。
1945年、双子のおかまタレント、おすぎとピーコが生まれました。おすぎ(本名:杉浦 孝昭、すぎうら たかあき)は映画評論家、ピーコ(本名:杉浦 克昭、すぎうら かつあき)はファッション評論家・ジャーナリスト、シャンソン歌手。共に自衛官顔ですが、よく見ると区別はつきます。ピーコは1989年(平成元年)、悪性黒色腫の診断を受けて左眼を摘出し、義眼を挿入しました。
1947年、お笑い芸人、タレント、元漫才師、歌手、俳優、映画監督のビートたけし(北野武)が生まれました。団塊の世代が嫌いで徹底的に馬鹿にしている私ですが、さすがにこの人だけは認めないわけにはいきません。まだ無名だった浅草時代、師匠の深見千三郎と演じていたコントは壮絶なものだったそうです。世に出たのは兼子きよしと組んだ漫才コンビ「ツービート」。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」など、毒のあるスピーディーなやりとりは漫才ブームの牽引車でありました。また、ピンで出演した『ビートたけしのオールナイトニッポン』の初期は社会や文化を語らせると、まるで文芸評論家の小林秀雄がそこに現出したかのように洞察力にすぐれたものでありました。鳥肌が立ちました。TVの『俺たちひょうきん族』でのタケちゃんマンは皆さんもよくご存じでしょう。俳優としては大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』が特筆モノ。落語立川流Bコースの一員で、高座名「立川錦之助」を持ちます。近年は落語を口演する際、立川談春から一字もらい「立川梅春」を名乗っています。映画監督としての評価はとくにヨーロッパで高く、フランスで勲章を授与されたほど。独特の青色を基調とした色彩感覚は「キタノ・ブルー」と称されます。1986年(昭和61年)12月、たけし軍団の軍団員とともに講談社のフライデー編集部を襲撃、住居侵入・器物損壊・暴行の容疑で、大塚警察署によって現行犯逮捕されました。1994年(平成6年)8月、バイクによる自損事故を起こし重傷を負います。事務所からの独立、夫人との離婚、愛人との同棲については皆さんのほうが詳しいでしょうから割愛いたします。
1948年、東京在住の上方噺家、2代目笑福亭鶴光が生まれています。高座名の読み方が「しょうふくていつるこ」なのは、師匠である6代目笑福亭松鶴の前々名である光鶴(こかく)の順序を逆にしたものが命名由来のためで読み方もそれに倣ったものです。ラジオで『鶴光の噂のゴールデンアワー』のパーソナリティを16年間務めました。リスナー(女性)にスタジオから電話して、「乳頭(ニュートゥー)の色は?」と訊くのが定番。レコード『うぐいすだにミュージックホール』は20万枚を売り上げました。2005年、リクルートの「フロム・エー(FROM A)関東版/関西版」のテレビCMに出演。様々なシチュエーションで「ええか?、ええか?」と語りかけるCMが人気を博しました。「ええか?、ええか?」は『鶴光のオールナイトニッポン時代』からのギャグフレーズですが、当時の流行を知らない若者の間でもこのフレーズが再度ブレイクし、このフレーズの着メロのダウンロードは急激に増加しました。タレントとしてのイメージと違い、落語は古典派。艶笑噺も演じないようにしています。
同じく1948年、フォーク歌手の森山良子が生まれました。19歳になった1967年に、黒澤プロダクション所属のソロ歌手として、「この広い野原いっぱい」でレコードデビュー。1998〜2000年頃にいくつかのアルバムで発表した「涙そうそう」(BEGINとの合作で森山は作詞、BEGINは作曲)も話題となりました。「さとうきび畑」で、2002年『第44回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞を受賞。同大賞では、作詞した「涙そうそう」が夏川りみの歌唱で金賞となり、森山自身もこの曲で作詩賞を受賞しました。血縁関係に息子の森山直太朗、娘婿に小木博明(おぎやはぎ)、従兄弟にかまやつひろしなどがいます。
1954年、アメリカの元プロレスラーのテッド・デビアスが生まれました。もともとは正統派のベビーフェイスでしたが、1980年代後半から1990年代前半にかけてのWWFでは、ミリオンダラー・マン(The Million Dollar Man)のニックネームを持つ、「金持ちの田舎者」というヒールとなって活躍。マネージャーやコメンテーターとしても才能を発揮しました。ウエスト・テキサス州立大学の出身で、ザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンの後輩にあたります。私見では数いたハンセンのタッグ・パートナーの中では地味ながらサポート役に徹したベスト・パートナー。現在では牧師をしているらしいです。
1955年、アメリカの俳優、ケビン・コスナーが生まれました。監督・製作・主演を務めた『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990年)でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を受賞しています。1987年、『アンタッチャブル』の主演に抜擢され、ショーン・コネリーやロバート・デ・ニーロを相手に正義感溢れる主人公を演じます。「ゲイリー・クーパーの再来」と評価され、遅咲きながらハリウッドのトップスターの仲間入りをしました。 『フィールド・オブ・ドリームス』(1989年)や『ロビン・フッド』(1991年)、『ボディガード』(1992年)では善き父親やヒーローを演じる一方、『JFK』(1991年)や『パーフェクト・ワールド』(1993年)ではシリアスな役柄にも挑みます。監督業やプロデューサー業にも進出し、1990年の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』ではアカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀監督賞を授与され、後のクリント・イーストウッドと共に、オスカー監督兼俳優としての地位を得ました。
1957年、女優の秋野暢子(あきの ようこ)が生まれました。1974年にNHK銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』にウェイトレス役で出演しデビュー。翌1975年のNHK連続テレビ小説『おはようさん』のヒロイン・殿村鮎子役に抜擢され、本格的に女優活動を開始。1976年のTBS『赤い運命』では山口百恵と共演しました。1980年代には歌手活動をしており、歌手としてバラエティ番組、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)にはしばしばゲスト出演していました。その後は、演技派女優、及びタレントとして多くのテレビ番組などに出演しています。1986年には映画『片翼だけの天使』で第60回キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞を受賞。またダイエットへの造詣も深めて講演や解説ビデオの出版等、多方面で活躍を見せています。現在は関西圏で芸能活動をしています。料理もプロ級の腕並みを持っていて、料理本も数冊出版しています。
1960年、歌手の桑江知子が生まれています。1979年1月25日、SMSレコードから「私のハートはストップモーション」(作詞:竜真知子、作曲:都倉俊一)でデビューし、ポーラ化粧品のコマーシャルソングに起用されたことで一般に広く知れ渡ることとなりました。ほか「ブルーブルー・アイランド」「クリスタル・ハネムーン」「ジャマイカ・タウン」といったスマッシュ・ヒット曲を発表。近年の桑江は、沖縄音楽に主軸を置いた活動が主。
1963年、女優の片桐はいりが出生。高等科在学中の文化祭において有志により催された上橋(原作・脚本)の「双子星座」が初舞台となります。1982年から1993年までの9年間に25本の作品に出演。近年は大人計画への舞台公演などにも客演し、ドラマでは先生からお婆さんの老け役、拘りの有る研究者など七変化の名脇役として活躍しています。
小林聡美、もたいまさこらとの共演が多いことでも知られます。
1973年、女優の中山忍が出生。中山美穂の妹。1988年、テレビドラマ『オトコだろッ!』で女優デビュー。現在まで2時間ドラマを中心に連続ドラマ、舞台、CMなどで活躍。1993年に『ゴジラvsメカゴジラ』、1995年に『ガメラ 大怪獣空中決戦』に出演したことで、ゴジラ映画とガメラ映画の双方に出演した初の女優となりました。

次は忌日。
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