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2021年01月09日02:39

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1月9日が忌日である人々

1242年(仁治3年)、第87代天皇、四条天皇が不慮の事故により、わずか12歳で崩御。践祚したのも2歳でした。父・後堀河天皇の兄はいずれも出家しており、自身には男兄弟がなく、皇子もいなかった四条天皇の死により、守貞親王(後高倉院)の血統から皇位継承が可能な皇子は絶えました。やむなく後鳥羽上皇の血統から次代を選ぶこととなり、九条道家ら有力公卿は順徳上皇の皇子・忠成王を推したのに対し、幕府は土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を推し、このやりとりの末、11日間の空位期間が発生しました。何もかもが異例です。
1263年(弘長2年11月28日)、浄土真宗の宗祖とされる親鸞が行年90(満89歳)をもって入滅。法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注ぎました。自らが開宗する意志は無かったと考えられます。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりました。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になります。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』が完成した寛元5年(1247年)とされますが、定められたのは親鸞の没後です。
1781年(安永10年)、江戸時代中期の岡山藩士・儒学者、湯浅常山(ゆあさ じょうざん)が数え74歳で死去。古学派に学び、歴史や漢詩、武芸にも通じました。24歳で家督を継ぎ、翌年藩命で江戸に出た際に荻生徂徠の門人である服部南郭に入門し、徂徠学派の太宰春台・松崎観海や同じ岡山藩出身の井上蘭台らとも親しく交わりました。岡山に戻った後、池田継政から3代の藩主に仕え、寺社奉行や町奉行を務めましたが、直言が藩政批判と看做されて隠居を命じられました。以後は著述に専念しました。著書に戦国武将の言行をまとめた『常山紀談』、徂徠学派の言行をまとめた『文会雑記』、随筆『常山楼文集』などがあります。安永10年1月9日(1781年2月1日)に死去。
1873年、フランス第二共和政の大統領、のちフランス第二帝政の皇帝、ナポレオン3世は膀胱に大きな結石が出来ていることが判明し、1873年1月2日と1月7日に手術を受け、結石を摘出しました。しかしナポレオン3世の容態は悪化を続け、3度目の手術を前にした1月9日には危篤状態に陥り、午前11時頃に死去しました。64歳。ナポレオン1世の甥。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送りましたが、1848年革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選しました。第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けましたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。1852年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始しました。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷きましたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行しました。内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くしました。外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図りました。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させました。しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行しました。以降2019年現在までフランスは共和政であるため、彼がフランスにおける最後の君主にあたります。
1918年、幕末から明治にかけて日本で活躍したイギリス出身の実業家、アーサー・ヘスケス・グルームは泥酔した挙句玄関の石段で転倒し、頭部を強打。傷口から破傷風に感染したことが原因で死亡しました。六甲山の開発と景観保護に力を注ぎ、「六甲山開祖」と呼ばれました。遺言により葬儀は仏式(日蓮宗)の家族葬で営まれ、遺体は火葬されて春日野墓地にあった妻の実家・宮崎家の墓に葬られました。戒名は英知院具理日夢居士。
1947年、ハンガリーの社会学者、カール・マンハイムが53歳で亡くなりました。知識社会学者の提唱者で、大衆社会の危険性について論じた『変革期における人間と社会』は、後のエーリヒ・フロムなどの大衆社会論の流れに大きな影響を与えました。他の主著は『イデオロギーとユートピア』。
1964年、コメディアン、俳優の八波むと志が東京都千代田区において自動車を運転中、都電の安全地帯に激突する自動車事故を起こし、病院に搬送されましたが脳底骨折のため死去。37歳没。芸名は九九の「8×8(はっぱ)=64(6=“む”と4=“し”)」から来ています。1956年(昭和31年)に南利明、由利徹と脱線トリオを結成し浅草を中心にテレビ・ラジオ、はたまた役者として活躍しました。私は『てなもんや三度笠』で彼を知りましたが、ずいぶん顔のえらがはっているなあと思いました。それと関係あるかは分かりませんが、徳之島の出身。タレントの八波一起は長男。
1968年、自衛隊体育学校所属の陸上競技者、円谷幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち)が自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺しました。27歳没。家族あての遺書には「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」とありました。東京五輪ではマラソンで銅メダルを獲得しましたが、その後、数々の挫折を味わい、それでも周囲の期待にこたえようとオーバーワークを重ね、病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年(昭和42年)には手術を受けます。病状は回復したものの、全盛期のような走りはすでに出来るような状態ではなくなっていたのです。おそらくメキシコ五輪に臨んでも厳しい結果に終わったかもしれません。
1983年、衆議院議員の中川一郎が札幌パークホテル10階1022号室バスルームにて死んでいるのを、妻の貞子が発見しました。57歳。当初死因は「急性心筋梗塞」と発表されましたが、2日後に「自殺」に訂正されました。自由民主党の派閥・中川派の領袖。正三位勲一等。 農林大臣(第49代)、農林水産大臣(初代)、科学技術庁長官(第35代)、原子力委員会委員長(第35代)。「北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていました。財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融担当)などを務めた中川昭一は長男。参議院議員を務めた中川義雄は実弟。
1988年、俳優、演出家の宇野重吉が肺癌のため東京都渋谷区の榊原記念病院で死去しました。73歳没。宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設しました。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求しました。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表しています。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来しています。長男は俳優の寺尾聰。私が宇野を知ったのは、NHKの大河ドラマ『天と地と』での宇佐美定行 役ででした。
1999年、俳優の芦田伸介が1989年(平成元年)頃からC型肝炎、肝臓がんを患って闘病生活を続けますが、俳優としての活動は精力的に続けました。1999年(平成11年)1月9日、肝臓癌のため東京都中央区の国立がん研究センターで死去。81歳没。満州で演劇活動に加わり、敗戦の引き揚げ後に劇団民藝に入団。1950年代からは日活のアクション映画に常連出演し、舞台を中心に映画・テレビドラマと幅広く活躍しました。渋い演技に定評があり、ドラマ『七人の刑事』『氷点』の演技で人気を得ました。著書に自伝『ほろにがき日々』など。
2005年、映画評論家の小森和子が呼吸不全のため、東京都の自宅で死去。95歳没。話を切り出す際の一人称として「おばちゃまはねぇ…」と言っていたこともあり、「(小森の)おばちゃま」として親しまれ、1980年代-1990年代は片岡鶴太郎が小森のものまねをしたことがきっかけで、バラエティ番組出演も多く、玉ねぎ型の髪型とその喋り、人柄から人気を得ました。テレビの映画放映の最後に登場し、「来週は、モアベターよ」とやっていました。1995年(平成7年)3月に自宅で転び、更に転んだ先に暖房ヒーターがあり、ヒーターの熱風で顔に火傷を負ってからはマスメディアに露出することがなくなり、1998年(平成10年)11月に車椅子で淀川長治の葬儀に出席したのが公の場に姿を見せた最後となります。晩年の10年はパーキンソン病、老人性認知症、うつ病を患い、寝たきりの状態で自宅療養生活を送り、養女が介護していました。奔放な性遍歴と率直な人柄の持ち主としても知られ、菊池寛や川口松太郎や檀一雄の愛人だったことを自ら述懐していました。
2016年、上方の噺家、3代目桂春團治が心不全で他界。85歳没。戦後、衰退した浪花の落語会を盛り上げた四天王の一人。持ちネタは少なかったものの、一つ一つが練り上げられた端正な芸でした。2代目桂春団治は実父。関西地区で土曜日の午後1時からTV中継されていた「角座アワー」では賑やかな漫才や音曲にはさまれて出演していても、観客は彼の高座をじっと見守っていたものです。上方落語協会会員(相談役、第3代会長)。出囃子は『野崎』。

本日の忌日もこれきり〜ぃ!
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