「武満徹さんが表現されたものは,たまたまアウトプットが音楽だったけども,どこかでちょっとそのアウトプットに至る回路が違ったら,詩になったかもしれないし,文学だったかも知れない。何にでも成り得る。何にでも成り得る音楽というのは,他には誰も書いていないと思うんです。
『僕は音楽じゃなくてもいいんだよ。たまたま音楽だったけれども,もし出口がちょっと違ってたら,絵になったかも知れないし,それはそれでいいんだ,うん』と言うんじゃないかという気がしますね。それがすごく不思議です。他の誰とも違うという気がしますね。
(中略)
武満さんの音は,ひとつひとつの音が,これはたまたま音だったけれども,キャンバスに描かれたいくつかの絵の具の何かの色かも知れない。音色という言葉があるけれど,それは音の周波数とか波形じゃなくて,純粋に絵の具で描いた,パレットに置かれた色彩そのものなんじゃないかと思うんですね。
だから,何か武満さんが書いた音というものがここに1個あるとして,それは角度を変えてみると,あれっ,絵になっちゃった・・・。別の側から見ると,あれっ,詩じゃないか・・・。と,そういう気がするんですよね。」
〜池辺晋一郎(作曲家)「武満徹全集第4巻」より
武満徹の音楽は,例えば刻一刻と移ろいゆく夕暮れの姿と色彩のように,音楽と言うよりは自然現象そのものという感じがする。
無調や現代音楽というと,繁栄を謳歌する表の顔と,不条理と矛盾に満ちた裏の顔に分断された現代社会の病んだ姿そのものをあたかも写したかのように,いつ始まるとも,いつ終わるともなく,突然襲いかかる不協和音と,そして次にどの音,どの和音に進むか全く分からない,調性のドラマの進行のない不気味で不安定な音楽,聞く者に我慢と忍耐を強いるものというイメージがある。
しかし,常に一定の姿形と色彩をとどめない夕暮れの景色は,そもそも起承転結のドラマなど持ちあわせてはいないし,いつ始まるか,どのように進行するか,いつどこに落ち着くかの予定された展開などない。
それでも私たちは,夕暮れの景色の常に移ろいゆく様相を味わうことができ,そこに美しさを見いだすことができる。
武満徹の音楽,いや,音世界とでも言うべきものにも,これと似たようなものがある。
きっと彼は,何気ない夕暮れの光景の中にも,私たちが決して聴くことのできないたくさんの音を聴き出し,その音と交流し,そしてその音をひとつひとつ,そっくりそのまま楽譜に書き写したのではないかという気がする。
人の手の作りし芸術としての「音楽」ではなく、自然の翻訳としての「音」。
芸術を意味する"Art"は,「人の手の作りしもの」を意味する"Artificial"に由来する。
一方,音を意味する"sound"には,様子、調子、印象といった意味もある。
そこで思い出すのが,風景に心象を託した画家東山魁夷の,この言葉である。
「この作品(「道」)の象徴する世界は,私にとって遍歴の果てでもあり,また新しく始まる道でもあります。
それは絶望と、希望の織り交ぜられたものでありました」
ただのありふれた光景,景色が,画家の目を通すと,こんなにも美しくも迷いに満ちた,色彩と深い情感に満ちた世界になる。
もちろん東山魁夷が目にし描いた風景そのものは,何も語ることがない。
絶望も,そして希望も,決して語ることはない。
画家が描いた風景画は,作曲家が描いた夕暮れの景色は,実際にはこの世には決して存在しない世界の風景,彼らが独自に見い出し,聴き出した世界なのだ。
その深い情感を,東山魁夷は言葉ではなく絵画に描き,そして武満徹は音として表現した。
「私の音楽は、自然から多くを学んでいる。
自然が謙虚に、しかし無類の精確さで示すこの宇宙の仕組みに対して、
私の音楽は、その不可知の秩序への限りない讃嘆なのだ」
武満徹”Visions in time"
私は,東山魁夷の絵画には,武満徹の音楽がよく似合うように思う。
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