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2020年11月14日21:39

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聖徳太子その2

聖徳太子は西暦622年(または621年)病気で亡くなったとされているが、妃の膳大郎女(かしわでのいらつめ)が太子の看病疲れで前日に亡くなっており、二人ほぼ同時に亡くなっているため病気ではなく殺されたのではないかという説がある。
法隆寺は創設以来一度も消失してないことで世界最古の木造建築物といわれたが、近年太子が亡くなって間もなくのころ一度消失した証拠が見つかった。
しかし消失してすぐに再建されている。このことが太子怨霊説ともなっている。すなわち太子の怨霊を鎮めるためすぐに再建されたというのである。

良く知られている聖徳太子の肖像画として両脇に皇子を配した絵があり国宝になっているが、この絵は太子没後100年以上たって描かれたものなので、そのため太子を写してなく別人だという説がある。さらに髭は後年追加されたものらしい。服装は唐のものだといわれている。冠も唐の則天武后の時代のものだといわれている。
そのことから渡来人の絵師が描いた想像画だといわれている。
この絵を見てみると素人目にも絵が下手だ。紙幣の聖徳太子はこの絵を基にしているが、はるかにすばらしい。
外国人のお抱え絵師が描いた肖像画といえば明治天皇の肖像画を思い出す。エドワルド・キヨッソーネによる肖像画は気品高く描かれているが、どこか日本人離れしてバタ臭い感じがする。
聖徳太子の肖像画も唐の貴人を描いたように見えるのも唐から招聘した絵師が描いたと思わせるものがある。

推古天皇が崩御したあと次の天皇の候補として聖徳太子の子の山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)が有力だったが蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が田村皇子を擁立し、舒明天皇として即位させる。やがて蘇我氏の実権が蝦夷の子の入鹿に移ると、入鹿は山背大兄皇子以下聖徳太子一族を襲撃する。そのため太子一族全員が自害する。
ここに聖徳太子の血筋は絶える。

しかし蘇我入鹿もまたおのれが擁立した皇極天皇(女帝)の目の前で中大兄皇子、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らに切り殺される。それを知った父親の蝦夷は屋敷に火を放ち自害する(乙巳の変)。これで蘇我氏は滅亡する。

古代の皇位継承の争いは血塗られている。しかし誰が正しかったのかは評価が分かれる。日本書紀には蘇我一族は途方もない悪者として書かれているが、はたしてほんとにそうだったのかという疑問をNHKの番組でやっていた。このことについては以前書いたことがある。
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聖徳太子について書かれた本を読んでも聖徳太子のことはよくわからない。著者の聖徳太子に対する思い入れで書かれているため、本によってさまざまな解釈がされている。
教科書などに書かれた太子像はときの政権の恣意的な人物像となっていると思う。
私も日本人として聖徳太子の人となりを少しでも知りたい。たとえ架空の人物であったにしても。



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