伊藤若冲の追っかけをし始めてからかれこれ15年近くになる。なかでも2007年相国寺・承天閣美術館の「動植綵絵」(全30幅公開）展と、2009年MIHOミュージアムで「象と鯨図屏風」が初公開されたときのことが一番印象に残っている。
あれから10余年。コロナ禍で会期が半年ずれたが久しぶりにMIHOミュージアムのコレクション展(観覧は予約制）で若冲の絵が展示されるときいて「象と鯨図屏風」に再会しに行ってきた。
＊「象と鯨図屏風」について
2008年夏、美術評論家・辻惟雄氏（MIHO MUSEUM館長）のもとに北陸に住む某氏から一枚の写真が送られてきた。ある知り合いの旧家から鑑定を依頼されたものという。辻氏は驚嘆した。伊藤若冲の研究者が一枚の写真を手がかりに捜し求めていた屏風だったから。
一枚の写真とは、昭和3年神戸の川崎男爵家から大阪美術倶楽部でのオークションに出されたときの目録に載るもので(以降これを川崎本とよぶ）、一双の屏風の左隻に鯨が勢いよく潮を吹き、右隻には象がすわって鼻を高くあげているという構図。若冲の奇抜な絵の中でも飛びぬけて大胆。こんな若冲はほかにない、と専門家が行方を捜し求めていた。しかしどこへ行ったかいまだにわからない。
辻氏はてっきりこの屏風が発見されたのだと早とちりしたが、比べてみるとどうやら別のものだった。となると、コピーかニセモノかということになるが、堂々とした落款が押されている。これはどうも若冲のもうひとつの「象と鯨図屏風」であろうということになった。 新出本（以降これをMIHO本とよぶ）は、所蔵者の好意によりMIHO MUSEUMに譲られ修理ののち公開の運びとなった。
その修復の過程と、川崎本とMIHO本の違いをくわしく解説したビデオが2009年展覧会場入口で上映されていた。 MIHO本は川崎本と同じく水墨画で描かれており一見両者とも同じ図様だが微妙に異なっている。
川崎本のほうは象の輪郭を墨の線で括る形＝いわゆる「鉤勒」の手法で描かれているのに対し、MIHO本のほうは輪郭線のない、いわゆる「没骨描」によって描かれており、形は外側の隈取りによってやわらかく表現されている。またMIHO本のほうには川崎本にないシッポが描かれている。 またその象の背後にはありえない傾斜をした崖が描き加えられ、そこから牡丹の花がのびて象の背中を優しくタッチしている。 象の背景に描かれた後ろの波は象が海辺にいることをよりはっきり示すためだろう。
高くあげられた鼻はMIHO本では外隈で表現されているため量感を欠いている。くるくるっと丸まった薄っぺらな鼻の描写は、子どもが縁日で買ってもらう「吹き出し」という紙製の玩具を思い起こさせる。
鯨の方は両者ほぼ同じだが、MIHO本のほうが鯨の跳ね上げる波頭がより大きく錬りあがって生き物のようにイキイキと表現されている。
実際にこの目でみた「象と鯨図屏風」（MIHO本）は素晴らしかった。
かなり大きい。地上で一番大きい動物と、海で一番大きい動物を対比させて描くという発想もおもしろいし、そのキャンバスとなる屏風もまた大きくなくては意味がないだろう。 長い間北陸で眠っていたのだから損傷激しく修復作業は大変だったようだが、さすがはプロ。修復後は屏風の外枠との糊付け面のために隠されていた部分も現れて、絵はひとまわり大きくなったそうだ。さらに迫力が増したとのこと。
それにしても・・・ 鯨は胴の部分だけしか描かれていないのに存在感がすごい。うまい表現だなと思う。また、象のほうはまるで餅で作った動物菓子のような、奇妙な体型だ。ドーナツのような耳、やさしい目。牙は口の中から突き出たように描かれ、脚はないのか胴に埋もれているのかはっきり描かれていない。完全に想像だけで描かれた動物のようにみえる。
若冲は実際象を見たことがあるのだろうか。実はこんな史実があるらしい。享保13年（1928年）6月、広南（いまのベトナム）から雌雄２頭の象が長崎に到着した。雌は長崎で死ぬが雄は翌年3月江戸へむけて出発し、6月に京都で天皇に謁見する。好奇旺盛な少年若冲はこのとき沿道に並ぶ多くの見物人に混じって象を見たかもしれない。鯨についても実際に見た可能性はあるという。
この絵はいつごろ描かれたのだろうか。
MIHO本には「米斗翁八十二歳画」と著名がある。一方川崎本の写真を拡大すると「八十歳画」と読めるという。どうもMIHO本は幻の川崎本の2年後に描かれたらしい。
80歳を超えてこれだけの大作をつづけて描きあげる気力もすごいし、さらによりよいものを制作しようとする意欲さえ感じられる。 なんといっても80歳にしてこんなファンタスティックな絵を描ける遊び心が素敵だ。
かつて梅原猛氏は川崎本をみて短い感想文をある新聞にのせた。
「象はめずらしく浜辺にすわって天高く鼻を振り上げ、はるか会場にいる鯨にエールを送り、鯨もまた天高く潮をふきあげ、象のエールにこたえているかのようである。」と。
確かに見れば見るほどキュートな絵である。陸と海でそれぞれ一番大きな象と鯨が大画面で向かい合っている構図は、ありえないが地球規模でのほほえましい光景だ。 そして、たとえば鶏なら執拗なまでに細密に描く若冲が、この大きな画面を使って極端に簡略化したフォルムの象と鯨を描いているのが実に面白いなぁと思う。
他の作品も見るとわかるが、若冲の作風は実に多様だ。
豪華絢爛な細密で極彩色の絵から見事な水墨画、点描、モザイク画、版画、簡略なイラストカット風、連写のこま送りのごときアニメーション風、グラフィックやテキスタイルデザインのようなもの、漫画のようなものまで。
彼はこのように画家とデザイナー、具象と抽象、細密と簡略の間を自由に行き来してその独特な世界（ワンダーランド）の幅を広げてきたのだ。
（つづく）
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