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2020年10月27日21:47

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トゥイル・バイ・トワイライト〜黄昏の綾織り

「リュリ,クープラン,ラモー,ドビュッシー,メシアンに至る,香気あふれるフランス音楽の系譜に,私が,他のどの音楽的伝統にも増した親近性を感じるのは,そこに音楽的色彩に関する,詩的で繊細な,感受性の歴史を見たからにほかなりません。

私は,ドビュッシーのたぐいまれな直感に導かれて,音の光と影,音の密度と濃淡というものを認識し,さらにメシアンから,時間の『色彩』と『形態』という観念について学びました」
〜武満徹「遠い呼び声の彼方へ」より

まさに,彼のその言葉が結実したかのような音楽,いや,音空間。
武満徹"Twill by Twilight"
https://www.youtube.com/watch?v=AEvUSOXYK0w&feature=youtu.be

タイトルを直訳すれば「黄昏の綾織り」。

昇る朝日を形容した音楽は多い。
グリーグ「ペール・ギュント〜朝」
ドビュッシー「海の夜明けから真昼まで」
ラヴェル「ダフニスとクロエ第二組曲〜夜明け」など。

朝日の昇っていく様は上向音型で,朝空を飛び交う鳥の鳴き声は木管楽器のトレモロで。
夜明けと共に空気が徐々に明るく澄んでいく様は,曖昧模糊とした和声や,楽器間の複雑なアンサンブルから,その和声が解決したり,楽器間のアンサンブルを見通しよくスッキリと整理することで表現できる。

それに対して,黄昏の,空が七色に移ろいゆく様を音楽で表現することは,何と難しいことだろう。
あえてその困難を音楽にするなら,このような楽曲になるのではないか。

どこまでが「音楽」で,どこからが「色彩」で,そしてどこまでが「気配」なのだろう?
そのような区分を見いだすことに意味はない。
黄昏とは,昼と夜が交錯する場なのだから。
どこまでが昼で,どこからが夜なのか,その境界を見いだすことは無意味だ。
昼と夜,そのどちらでもあり,またそのどちらでもない,「黄昏」という時間帯。
それは,常に移ろいゆき,一定の色彩や形態,大気の密度をとどめえないものなのだから。

音楽とは時間を伴うものだから,黄昏の空の色彩の移ろいゆく様を,その時間の経過の中に表現するには,非常に適した芸術形態なのだろう。
耳で聞く黄昏の風景,聴覚的風景。

縦糸を天の空の色彩の移ろいからなし,横糸は時間の経過からなる,まさに黄昏の綾織りである。



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