ヨーロッパロシアやシベリアのステップに、紀元前後に繁栄したスキタイという遊牧王国があった。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが、著書『歴史』で西欧に紹介した。
◎スキタイ王墓パジリク古墳群に葬られた貴人に遠くエジプトから渡来した装飾品も
スキタイは、版図内に日本の円墳に似たクルガンを多数築造した。
その中で紀元前400年頃に高貴な死者が埋葬された、アルタイ地方のパジリク古墳群は最も有名である(下の写真の上)。旧ソ連時代の1929年と第二次大戦後の1947年〜1949年になされた発掘調査では、冷凍状態の保存良好だったため、被葬者の中には軟部まで残された遺体もあった(下の写真の下)。
多様な副葬品の中には、遠くエジプトから伝えられたビーズなどの宝飾品もあり、北ユーラシアのステップを駆け抜けたスキタイの影響力の大きさをしのばせた。
◎夥しい骨の損傷残す「トゥンヌグ1」墓群の遺体
このほどロシアとスイスの考古学チームが発掘していた南シベリア、トゥバ共和国の大規模なクルガン「トゥンヌグ1」墓群は、王墓ではなかったようだが、ここから大量の遺体が発掘され、注目された(写真=発掘風景)。
年代は、パジリクよりやや新しく紀元100年〜400年頃だが、発掘調査者が注目したのは、遺体のほとんどが生前に暴力を加えられた痕が骨に残されていたことだ。
このトゥンヌグ1を築いた集団は、おそらく周辺の集団としょっちゅう交戦やいざこざを起こしていたようだ。
◎頭頂部に鉄鏃の孔が
発掘された87体の遺体のうち、20体以上の骨に切り傷、鏃・剣先で開けられた穴、殴られた跡などの傷が残っていた。意外に少ない、と思ってはいけない。骨に痕が残らない重症で死んだ遺体は、骨に痕が残る遺体よりずっと多かったはずなのだから。
骨と骨の間には軟部に刺さっていたと想像できる鉄製鏃も見つかった。犠牲者は子どもから老女まで幅があるが、ほとんどが10代前半から成人だった(写真:上=発掘された若者の頭蓋。頭頂部近くに鉄鏃の刺さった痕らしい菱形の孔が開いていた。中央=副葬された鉄鏃。下=中年男性遺体)。
椎骨に激しい打撃を受けた痕跡のあった男性は、武人だったのだろうか。首に近い脊椎の前部分に切傷がある少年の遺骨も発見された。
そうした損傷を受けた遺体は、数百年という長い年代にわたっているから、周辺集団との騒乱も長期に及んでいたのだろう。
◎日本の戦国時代を彷彿させる
ただスキタイ遊牧国家は、大帝国を築くまでには至らなかった。日本の戦国時代のように、中小王国が群立し、絶え間ない争いが繰り広げられていたようだ。
トゥンヌグ1墓群の発掘は、その血なまぐさい断面を覗かせてくれた。
注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、
https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202010150000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。
昨年の今日の日記:「樺太紀行(55);最終日の早朝散歩で巨大なレーニン像の建つレーニン広場へ」
ログインしてコメントを確認・投稿する