mixiユーザー(id:1833966)

2020年10月04日05:32

69 view

死の悪疫=天然痘と闘った幕末の先覚者(3の後編):日本に初めて種痘苗を持ち帰ったシベリア帰還の漂流民、久蔵の不遇

 傷心のていでオホーツクに戻された久蔵は、再びミハイラ医師の治療を受け、傷は癒えた。

◎独り残された久蔵は得意のロシア語を活かし、診療の手伝いも
 すると、禅宗の寺で8年間修行した久蔵は、漢字も含めて日本語の読み書きができた。さらに聡明だったためロシア語もいち早く習得していたことから、ロシア人向け日本語教師に仕立てるためにイルクーツクまで護送されるが、ロシアにはなお日本に幽閉されたままのゴロヴニンたち7人を取り戻すための交換要員とする必要が生じ、再びオホーツクに戻される。
 ここでは久蔵は、足の治療で世話になったミハイラ医師宅に預けられ、ロシア語に堪能になっていたこともあって、診療の手伝いをするまでになった。ミハイラ医師が多忙な時は、久蔵が単独で診療することさえあった。

◎教えられて自ら種痘を行う
 ミハイラ医師の酒の相手をしていて久蔵は、五郎治の所有していたオスペンナヤ・クニーガについて質問した。ミハイラ医師も、同じ本を持っていた。そして牛痘苗を植えることで、決して天然痘にかからないことを教えられる。ロシアでは、皇帝の方針で国民に広く普及していたのだ。
 種痘を学びたいと思った久蔵は、ミハイラ医師の紹介で、オホーツク病院の種痘専門医シーモノフに会いに行き、接種法を教えられる。その後、ミハイラ医師と共に自分でも牛痘苗を植えるまでになった。ちなみに五郎治は、接種を見学せず、むろん実施したこともなかったから、久蔵はこの時点で日本人で唯一の種痘を実施した者と言えた。文化10(1813)年のことだった。

◎痘苗を持ち帰るも芸州藩の無知蒙昧でお蔵入り
 その年、久蔵は1年遅れの帰還を果たした。荷物の中には、オホーツク最後の晩にミハイラ医師から贈られたガラス板に密封された牛痘苗5枚、皮膚に傷つけて痘苗を植えるランセット(小刀)のセットが入っていた。
 だが祖国に戻った日本は、久蔵には優しくはなかった。半年も箱館と江戸で、縄を打たれたうえで厳しい詮議を受け、ようやく故郷の広島に帰り、芸州(広島)藩主の隣席のもと、藩首脳に引見されるが、その際、ガラス板封止の牛痘苗を詳細に説明し、これこそ疱瘡(天然痘)予防の唯一最適の方法と力説しても、理解してもらえなかった。中には「角が生えてこないか」と揶揄する者までいた。
 久蔵の疱瘡の予防法の説明は、そこで打ち切られた。つまり藩からは、一顧だにされなかったのだ。久蔵にすれば、そこで種痘医療の許可が得られ、両足が不自由でまともな職に就けない自分にとってうまくすればそれが天職になるという希望があったが、簡単に裏切られてしまったのだ。

◎認められることなく、窮乏のうちに66歳で死去
 種痘医になる夢を絶たれた久蔵の暮らしは、両足が不自由なこともあり貧窮を究めた。一時は、「オロシャ帰り」であることから各所に呼ばれてロシア事情を話し、金を得られたが、それもわずかな期間だった。妻帯し、子どもは産まれても皆、夭折した。妻も近所の手伝いをしてやっと口を糊した。
 嘉永6年(1853)年、ペリー来航の年に、故郷の川尻浦(現・呉市)66歳で窮乏・不遇のうちに死去した(写真=久蔵の墓)。
 久蔵が文化11(1814)年に持ち帰った痘苗・ランセットと種痘術は、長く忘れられていた。五郎治が松前で「植え疱瘡」を始めたのは久蔵帰国後10年後だったが、五郎治の植え疱瘡も京阪や江戸で知られることはなかったことは前回、述べた。

◎制式と認められたのは35年後
 久蔵の種痘術が、実は長崎のオランダ商館で初めて行われた西欧式種痘(嘉永2年)と同じもので、種痘制式のものであったことが幕末の蘭方医に知られたのは死後のことであった。嘉永2年は1849年だから、久蔵の痘苗と術式を持ち込んだ年から35年後のことであった。
 長崎で始まり、佐賀、そして芸州にも広がったオランダから来た種痘法は、京都、大阪、福井、江戸へと広がった。
 その江戸では安政4(1857)年に神田お玉が池に種痘所が設けられ、幕府も種痘に力を入れるようなる。
 この間、北辺の植え疱瘡師、中川五郎治と芸州の田舎の貧窮の障害者である久蔵の功績は、ほとんど誰にも認められることはなかったのだ。先覚者の悲運、と言えばそれまでだが、その間、多くの子どもたちが天然痘で死んでいた。
 無知の怖さ、である。

◇これまでのシリーズ4編一覧
・20年10月3日付日記:「死の悪疫=天然痘と闘った幕末の先覚者(3の前編):日本に初めて種痘苗を持ち帰ったシベリア帰還の漂流民、久蔵の不遇」
・20年9月27日付日記:「死の悪疫=天然痘と闘った幕末の先覚者(2の後編):北辺の蝦夷、松前で日本最初の種痘を行った元シベリア虜囚の中川五郎治」
・20年9月25日付日記:「死の悪疫=天然痘と闘った幕末の先覚者(2の前編):北辺の蝦夷、松前で日本最初の種痘を行った元シベリア虜囚の中川五郎治」
・20年9月22日付日記:「死の悪疫=天然痘と闘った幕末の先覚者(1):日本の種痘の道を開いた人、福井の町医者の笠原良策」

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202010040000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「香港、10月1日の『国殤日』は流血の日、『国慶節』を祝う習近平どもの意図を粉砕」

2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年10月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031