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2020年05月18日19:59

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京極堂の時代

京極夏彦の『姑獲鳥の夏』が、ミステリ界に衝撃的なインパクトをもたらしたのは1994年の晩夏のころ。
 フォト これね。
昭和20年代を舞台に、日本や大陸の妖怪、魑魅魍魎、近世の絵草子かな草紙、古代の神話伝説などの蘊蓄を縦横に駆使して猟奇事件を描いた内容そのものもさることながら、どう読んでいいかもわからないタイトルに、新人作家にしてはぶ厚すぎるボリウムが、読者の食指を大いにそそった。
その後次々に世に放たれた『魍魎の匣』『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』と続く「百鬼夜行シリーズ」は、どんどんそのページ数を増やしてゆくにもかかわらず、ゆるぎない固定ファンを獲得したのだった。

私はといえば、本屋の書棚で増殖してゆく京極本を遠目に見ながら、興味を煽られないこともなかったけれど、とてもじゃないが手を出さない方がいいと理性の命ずるに従い、放置すること早四半世紀。
昨年1月の『リヴィエラを撃て』読書会のおりに、なんとなく「京極夏彦ってやっぱおもしろいんですか?」と迂闊なことを口走ったせいで、その場にいたなんと四名の人から『絡新婦の理』なんてどう?そうだねそれが一番「向き」だと思う、慥かにそうですね、という意見を頂戴し、そのままの勢いで、じゃ、そのナントカ蜘蛛にしましょうか、なんて決定を下してしまったことに、それに膨大なエネルギーを費やすことになってしまった後で苦笑いすることになる。


というわけで、我が家で続けている読書会の32回目のテーマ本は、『絡新婦の理』と決まった。
「じょろうぐもの ことわり」と読みます。

人気作家京極夏彦の、上に書いた作品シリーズの第5作目。
古本屋「京極堂」の主にして宮司、しかも陰陽師であるという中禅寺秋彦を主人公に、彼の周囲の刑事、探偵、作家、古道具屋、編集者などが猟奇事件に巻き込まれ、互いに憎まれ口をたたきあいながら、ガヤガヤと事件を解決に導くという筋立てで、その後も書き継がれている。
この本を推薦してくれた人の話によると、シリーズの過去の登場人物がその後も繰り返し現れては、過去の事件の犯人やトリックの内容が明かされているので、前の作品も読むのであれば、最初から順に読んだ方が良いということだった。
生真面目な読者であり読書会主宰者であるわたくしは、当然ながら何の迷いもなく、シリーズ第1作『姑獲鳥の夏』(うぶめのなつ)から順に手に取った。
どれも600頁、いや作品によっては1000頁を超える大作ばかりだが、その人気や需要に従って、文庫分冊版なども次々に発刊されているため、常識的な厚さの文庫本を、ちぎっては投げ・・じゃなかった読んでは次、読んでは次という風に攻略していった。


『絡新婦の理』は、
東京や千葉で残忍な目潰し魔による連続殺人事件が起こり、それが房総半島勝浦にある名門女子学院内部の売春の噂と学院関係者の変死事件とかかわりがあることが判明したため、たまたま現場で事件に巻き込まれていた男が、「こういう時はあの男を引っ張り出すに限る」と、京極堂こと中禅寺秋彦を現場に呼び、京極堂が事件の核心にいる数名の憑き物を落とすことによって連続殺人事件はひととおりの解決を見るが、事件後しばらく経って、京極堂は、一連の出来事が自動的に連鎖するように仕組んで、自らはその中心にいて事態を静観していただけにすぎなかった「絡新婦」と対峙し、その絡新婦を、自ら張り巡らしていた糸から解放する、
という物語だ。

文庫単冊版で1374頁、厚さ5.5センチというバカバカしいほどのボリウムだが、そこに文字通り蜘蛛の糸のように張り巡らされたトリック、いや人間関係が、読んでも読んでもクリアにできず、私は読書会の前に3日かけて内容をメモし、ウンウン唸りながら人物関係図を作ろうとしてとうとう果たせず、それでも事件の中心にいる旧家「織作家」の家系図だけを、書いては消し、書いては消ししながらなんとか拵えたのだが、ミステリ小説が大の苦手の自分には荷が勝ちすぎたようで、やっぱり何か所か読み取れずに間違えていた箇所があった。
オンラインで行われた読書会は、この家系図と、参加者が提供してくれた、非売品の京極夏彦全作品の解説書を画面で参照しながら進められた。
  フォト
自作の織作家系図改訂版。これでもまだ、ちょっとアヤシイところがあるのですが。

これに比べれば、『リヴィエラを撃て』の年表づくりは、時間こそかかったけれど、単純な作業だったなぁ・・・。

読書会は、一人一人に、読み進めながら真犯人は誰だと思ったかを聞いてみるところから始まったが、予想通りというべきか、誰もが早い段階で人物Aに目星をつけ、何人か終盤になって人物Bに疑いの目を向けるも、やはりAに落ち着いたようだった。
つまりたいていの人は、真犯人はAであると正しく見極めることができる小説だったわけだが、面目ないことに不肖ヨシモト、登場回数の極端に少ない人物Cを疑ってかかり、終盤、「化粧をしていない女」との記述に、そうだ、Cは化粧をしそうにないからやっぱり大当たりだ!とガッツポーズをして、最後になってあれ?となる体たらく。
とんだ女関口君だ。(京極堂の読者だけがわかる比喩です。)

さらにより深刻な恥をさらすと、ミステリの核心ともいえる「真犯人の動機」の大きな部分、「犯人が隠したかった過去」について、作者のほのめかしを、私はちっとも読み取れていなかったようだ。
嗚呼、恥ずかしい。
参加諸氏は、わたくしのあまりの読みの浅さに愕然としたことだろう。
うん、まぁね、読書会の主宰者っていうのはね、一番優れた読み手であってはいけないわけですよ。そう思いませんか?

さて。
作品の内容はともかく、この日やはりね、と思ったのは、京極夏彦の作品と読者について。
彼の作品を読んできたこの日の参加者のほとんどは、中高生の頃にハマり、それから新作が出るごとに買って読み、しかし社会人になるとなかなかあのボリウムの本を読むことままならなくなって次第に遠ざかり、今回このタイミングで久々に読もうと思ったら、意外なほどに難儀した、ということだった。
中でも一人は、友人に今回の読書会の話をしたら、「あなた、今さらこんな本を大の大人に勧めるなんて、どうかしてるんじゃないの?」と言われたそうだ。
一方で司書教諭をしている参加者によると、今の高校生には「全く読まれていない」そうで、最近の子供らは、長い小説を読むことができないのだそうだ。

ここから導き出される事実はこうだ。
京極夏彦の作品はかつて、得体の知れないものに対する興味が強く、そこで語られる蘊蓄を自分なりに理解したつもりになって周囲の友人たちへの優越感なり共感なりを抱き、現実生活以外の世界に没頭できる多感な世代から、絶大なる支持を得た。
しかし、デビュウから10年そして20年を経た今、新規の読者をさほど獲得できていないと見える。
新作が出たら買い、シリーズの続刊を心待ちにしている読者は、若いころに京極にハマった層に限られてきているのかもしれない。
今日、町の書店の棚を見ると、かつて書棚の広い部分を占領していた京極本も、今は一生懸命に探して三冊ほどが置かれているだけだったという証言もあった。
かつてほどではないが今も新作は発表されているけれど、短編の連作の割合が増えているような印象を受ける。
百鬼夜行シリーズ自体も登場人物の戯画化が甚だしく、これはもしかすると、ライトノヴェルに流れた若年層を取り戻すための苦肉の策なのかもしれない。
ファンをして「もはや本というより煉瓦」と自信満々言わしめたあのボリウムなくして京極夏彦と言えるのか、と私は思うけれど、もはや彼の時代は終わっている、と言えなくもないのかもしれない。

「百鬼夜行シリーズ」は、昭和27年ごろを主な舞台としている。
登場人物の多くは軍隊経験者で、そのことがシリアスに描かれる場面はないけれど、『絡新婦の理』では、進駐軍占領期の公的慰安所(RAA)の存在がテーマの底に暗く横たわっている。
また、シリーズ主要人物の一人は、旧華族の出身者でもある。
なぜ1990年代の作家がこの時代を選んだかを皆で考えてみたが、やはり陰陽道や妖怪などの前近代的な世界の名残がかすかにあり、人工授精や新興宗教など新しい時代の不確かな価値観が台頭してきた、新旧の考えの混とんとした時代だからこそ成立する物語群なのだろうということで一致した。
舞台は少なくとも、高度成長期以前でなければならないのだ。
(古い時代にした方が、技術の急激な伸びがみられずに、連作が書きやすいという背景もあるのでは?との意見もあった。卓見だ。)


今後、京極夏彦がどんなものを書くのか、もう書きたいことは書き尽くしたので、別の何かをプロデュースするのか、彼の作品を数千ページ読み終えて疲労困憊の私には、それを追求するファイトはもはやないけれど、水木しげるの弟子でもある京極が新たに何か面白いことをやるようであれば、ちょっと覗いてみたいような気はする。
(実は数年前に、彼が遠野物語をリライトした書物は読んでいる。)


京極堂、関口君、あっちゃん、榎さん、木場修、そして今川のマチコ君。
あなたがたの大騒ぎに付き合えて、疲れたけど愉しかったよ。
こんなことをここで書かれて不本意だろうが、また読者を喜ばせてやって呉れ。
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