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2019年11月15日05:52

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坂本龍馬を取り巻く人々

高知城・かつら浜・竜馬博物館に日本三大洞窟の一つ龍河洞を見学して土佐で呑んだ「船中八策」は五臓六腑にしみわたりました。龍馬が亡くなってから150年目に土佐へ行き「龍馬の休日」を体験できた。とても考え深い日に土佐にいたことはいい思い出です。

高知市の桂浜には、1928年にたてられた高さ13メートルの龍馬の銅像が、太平洋を睨んでいますが、土佐の青く、果てしない海が、龍馬の大きな夢を育てたことは確かでしょう。武士と商人の両方の血筋を引いていたことも、龍馬が自由な考えを持つようになったことと無関係ではないでしょう。

土佐の人々は、昔から頑固なとこがあり、特に頑固で、自分の考えを曲げない男のことを「いごっそう」と呼んでいますが、龍馬の体には、「いごっそう」の血も流れていたようです。また、姉の乙女が与えた影響も、小さくはありません。

さらにいろいろな人と出会うことによって、その夢はますます膨らむと同時にしなやかさをも強くになり、魅力にあふれる龍馬を作り上げたのではないかと思います。龍馬は、明治維新でもっとも大きな役割を果たした人物で、もし龍馬がいなかったら日本の歴史は変わったのでないかといわれるほどです。

龍馬が若い人の圧倒的な人気を持つ秘密も、そこにあるのでしょう。坂本龍馬の功績はなんと言っても、薩長同盟の実現、大政奉還の発案など、明治維新に果たした役割は大きいです。また、龍馬は海援隊という商社を作ったのも有名です。薩長同盟に関わり政治的な活動をする一方で、起業家でもあったのが、魅力のひとつです。

龍馬は倒幕に対して、その先を見据える視点を持っていたことが他の倒幕の多くの人との違いであったと思います。幕府を倒してその後ということを龍馬は早くから考えていました。それは彼の死後も新政府の中で生かされているのです。

龍馬自身は新政府の中で政治家となることを望まず、幕府を倒して新しい政治形態を作ったら、自分は海援隊の活動に見られるような事業家としての道を歩むはずでした。龍馬が暗殺されていなければ、現在の三菱は違った形だったかもしれません。

龍馬と同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎は土佐藩の貿易業務などをベースに三菱の基礎を築いたが、龍馬が生きていれば当時の土佐藩の重臣、後藤象二郎らとも交流があったので、その役割を担った可能性が高いからです。 だが、龍馬はそこまでの夢を実現できずにこの世を去った。奇しくも龍馬32歳の誕生日に京都・近江屋で暗殺されてしまうのです。

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