徳川時代、幕末の政治構造をめぐる議論は大きく修正されています。攘夷自体は全国的に共通した意志であり、その方法が時と場所によって変化していったという考えでしょう。そこで取り上げられるのは「大攘夷」と「小攘夷」という概念です。
外国舟を打ち払うといった実力行使は、視野の狭い「小攘夷」であり、当時の日本の軍事力・経済力では、かえって相手に侵略の口実を与えかねない。そうした射程の短い対応を批判し、長い目で国力の差を克服していくべきとする主張が「大攘夷」と呼ばれました。
国内の統一を優先し、富国恭平を進めて列強に向き合えるだけの実力をつけるべきという考え方です。この考え方によれば、公武合体は尊王攘夷のための方法の一つになります。列強の接近から開国前後までは外国人排斥の「小攘夷」の立場をとっていた改革威力が、しだいに富岡恭平を目指す「大攘夷」の立場へと転換していくのです。
攘夷という言葉は、当時から単に外国舟のうち払いという認識されていたわけではなく、独立国家としての日本が立ち行くようにする体制変革の文脈でも用いられているのです。こう考えてくると、勤皇で知られた前水戸藩王・徳川斉昭が膜制改革に乗り出したことや、薩摩藩が長期にわたって公武合体による自体の打ち会を図り、その後、内幕へと手段を切り替えたことも理解できるでしょう。
すなわち、幕末の政治構造は尊皇派と佐幕派の単純な争いではないのです。いかにして独立を守るかという抗議の「攘夷論」が展開され、その手段としてその時々の政治状況によって公武合体論が現れ、そうした手段が政治闘争と絡み合って展開していったと考えられるのです。
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