同じ写真貼って申し訳ないんだけど…
俺にとってこの「先生」も「ハンドボール」も、俺の人生観を変えたのであった。良い意味で。
戦術って面白いぞー(^^)
スカイプレー決まったらかっこいいぞー
この頃から僕は、バスケやサッカーにも、そして野球にも急激に興味を持つようになった…
「ハンドは、サッカーとバスケを足して2で割った競技や
」
「この2つの競技のおいしいとこどりなんやー
」
とか中三の僕はそんな事を考えていた。同時に一生懸命、それこそ全力で取り組むことの大切さも、学んだ気がした……
そんな中三の秋に、塾に新しく生徒が入ってきた。「不二門」って名前だった。タカトシやタダといった斑鳩中のメンバーだった。その事もあって、僕らはすぐに友達になった。
不思議なんだけど、僕はよくその時の事を思い出す。短い間やったけど、切磋琢磨し日々がすごい充実していた、併願の私学も、彼は普通に回されてしまった。僕はギリギリで特進コースに受かった。
そんな事もあったけど、不二門と、彼の友達の白石が北大和に受かったとき、僕は本当に嬉しかった。いやーまた塾の日々の延長が過ごせる
とテンションが上がっていた
中学はあんまり勉強しなかったから、別にハンドボールじゃなくても、他に両立できる部活に入りたいよなー
思った。
とにかく僕は「友達が出来ない」とか、という心配はあんまりしていなかった。面白キャラの俺は、どこでもやっていけると思っていた。
やっぱり僕は、物事は切磋琢磨しないといけないと思う。嫌われたくないとか、友達が欲しいっ思うかも知れないけど、やっぱりお互いを「見下し」てる関係とか、本当は嫌っている関係と言うのは、続かないし、不毛だと思った。やっぱりお互い尊敬できる関係でいたいと、僕はそう思った。
今僕は転職中やねんけど、やっぱり僕は「人前で喋る」という仕事がしたいと考えていた。プレゼンでも塾の授業でもそうやねんけど、僕は「自分の言葉で語る」という事がしたくてしょうがなかった。
塾の仕事は英語でも数学での教えるのは楽しかったんだけど、やっぱり「国語」を教えてた時が一番楽しかった。現代文は、というか文章ってのは「筆者」が文字通り「自分の言葉」で書いたものであった。僕も不思議と、そこに書いてあることは、ものすごく僕自信に刺さったのである。
そういうわけで、僕は「国語」の教員免許を取りたい、と思うようになった。その免許の単位を取りきれたのは去年だけど、僕は「やっと取得できた
」という気になった。
だから、父にも「教員の講師登録考えてるねん」と伝えた。でも答えはNOだった。母にも「どこでもいいから、就職しなさい」と言われた
今まで散々「教員なれなれえ
」と焚き付けて、落ちたらこれか?まず労えや
まずは謝れや
自分らの都合に付き合わせてったてよ
いや、免許取らしてくれたのは感謝してるよ?何だかんだ「人前で喋る」って事に楽しさを見いだせた。
ただ、教師の場合、校長が職員を評価したり、部活の顧問強制したり、「本来の業務」以外の評価とか雑用が多すぎるのであった。
父からよく「体育科の教師はアホが多い」とか「上位下達」と言われたが、いや、高校で働いた事もない俺が、何で校長の性質を知ってんねん。
「俺の時代と今は違うからなー」と教師を断念するよう俺に言ったが、いやだから、そんな「間違った前提、俺に押し続けたから、こんなことになってんねんやろが」と喉まで出かかっていた。
そんな事をずっと考えてたんだけど、原因はそこじゃなかった。
僕はどうしても「高校サッカー部」事件がなければって考えない日はなかった。それは他の部員もそうだった。ほんのちょっとした「行き違い」が、取り返しのつかない事態を招いたのであった。
はっきり書くと、僕はそのときから「自分の気持ち」を封印するようになった。
それは、母が長年教師で「母に迷惑をかけるな」という元々の俺の考えの上から、完全に覆い被さるようなものであった。まったく隙間もないほどに。
その封印が、母が教師ではなく「普通の人」になって、感情が一気に溶けだした。
何でお前は何年も何年も、自分の望みと逆方向に行って、人に「利用される」ような人生選んでんねん。
その反動が、俺の「アイデンティティクライシス」の原因だった。
でも、この写真を見て、僕はかつて自分を思い出した。
斑鳩南中から緑ヶ丘中に転勤したこの人のために頑張りたいと思ったんじゃないかい?
それは「誰かにやらせれてるのかい?」自分の意思だろう?
カトーの着地点はどこやねん。「自分が輝いて、相手も輝かせるんだろう?」
そこに向かっていけよ
続く
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