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2018年12月09日19:56

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壬申の乱と関ヶ原の戦い[読書日記703]

題名:壬申の乱と関ヶ原の戦い ――なぜ同じ場所で戦われたのか
著者:本郷 和人(ほんごう・かずと)
出版:祥伝社新書
価格:800円+税(2018年2月 初版第1刷)
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歴史に疎い私がマイミクさんの読書日記につられて、本書を手に取りました。

表紙裏の惹句を引用します。
“■なぜ、この地だったのか
 古代最大の内戦・壬申の乱、室町幕府を確立させた中世の戦闘・青野ヶ原の戦い、近世最大の会戦・関ヶ原の戦い。
 三つの戦いがいずれも同じ地(不破=青野ヶ原=関ヶ原)で行なわれたのはなぜか? また、その結果が歴史を大きく動かしたのはなぜか?
 この謎解きに、中世政治史を専門とする著者が挑む。
 考察の過程で、天武天皇が始めた「固関(こげん)」の意図について、新説を導き出した。
 歴史の醍醐味を味わえる、スリリングな一冊”

目次を紹介します。
 はじめに
 序 章 なぜ関ヶ原(不破)だったのか
 第一章 壬申の乱
 第二章 青野ヶ原の戦い
 第三章 関ヶ原の戦い (1)その構造
 第四章 関ヶ原の戦い (2)歴史的意義
 第五章 歴史が転換する時

本書の良さは、単に戦闘だけ取り上げるのではなく、《1.戦いが起こった原因》→《2.戦い》→《3.その結果》と検証しながら書き進めている点です。

例えば、【第一章 壬申の乱】から引用すると、次のようになります。
《1.戦いが起こった原因》
“天智天皇と後継者の大友皇子は国外政策を重視、(朝鮮半島の)白村江の戦いで大敗しただけでなく、近江遷都の強行や史上初の全国的戸籍・庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成などで、反感が強まっていました”(48p)
 →この不満を背景に大海人皇子(おおあまのみこ)が挙兵したそうです。

《2.戦い》
“戦いは、大きく分けて二方面で行なわれました。ひとつは、六月二十九日に始まった大和での戦いです。大友吹負(おおとものふけい)らが近江朝廷軍と戦い、飛鳥・大和を掌握しました。(中略)
 もうひとつは、七月七日になって琵琶湖東岸の息長横河で両軍が激突した近江での戦いです。
 こちらも、高市皇子(たけちのみこ)を将軍とする大海人軍の勝利に終わります”(62p)
 →著者は、このあとの文章で“和蹔(わざみ)の地、のちの関ヶ原に本営を置いて戦いを展開したことが勝利に導いた”と書いています。

《3.その結果》
“(壬申の乱は)天皇の長子と弟が国を二分して争った戦いであり、こののち、日本という国の姿は大きく変わりました。
 最初に挙げられるのは、それまで「大王(おおきみ)」と呼ばれていたのが、天武朝から「天皇(すめらみこと)」になったことです。
 同時に、天皇を讃える神話が作れらました。『日本書紀』『古事記』が編纂され、神武天皇は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の末裔であるとして、天皇の存在における超越性についての理論武装が行われました。また、仏道と神道を両輪とする王権も確立しました”(65p)
 →『日本書紀』については、その信憑性を怪しむ次のような記述もあります。
  “ところが、神武天皇が紀元前660年に即位したことにするために、『日本書紀』では神武天皇の崩御が127歳とされたのをはじめ、第十代の崇神(すじん)天皇が120歳、第十一代の垂仁(すいにん)天皇に至っては140歳とされ、初期の天皇の寿命を科学的とは言えない長寿にせざるを得なくなりました”(21p)

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それでは、印象に残ったところを引用します。
【第一章 壬申の乱】から関ヶ原の重要性に目をつけた最初の人物の話。
“天武天皇は即位した翌年、不破、鈴鹿、愛発の三ヵ所に関所を置きました。つまり、関ヶ原という地の重要性に最初に目をつけ、関所を置いたのは天武天皇なのです”(63p)

【第二章 青野ヶ原の戦い】から、青野ヶ原の戦いの歴史的な意義について。
“青野ヶ原の戦いがもたらした歴史的な意義とは何でしょうか。
 一言で言えば、南朝の軍勢が壊滅し、南北朝の戦いにけりがついたことです。
 つまり、南朝と北朝のふたつに割れていた天皇家ですが、青野ヶ原の戦いの勝利により、明らかに北朝が勝利したのです。
 それによって将軍権力が確立、武士の世が到来しました”(97p)

【第三章 関ヶ原の戦い (1)その構造】から、徳川家康の前田家に対する言いがかりの話。
“家康は(豊臣政権を崩す)手始めに、前田利長(利家死後の前田家当主)が謀反を起こそうとしたと言いがかりをつけて討伐しようとしましたが、前田家側が人質を出すなどして謝ってきたので許さざるを得ませんでした。
 本当に謀反があったとは考えられず、家康側の言いがかりであり、言いがかりをつけては相手を討伐するというのが、家康の常套手段でした”(123p)

【第四章 関ヶ原の戦い (2)歴史的意義】から、家康がなぜ江戸に幕府を開いたのかを考える仮説。
“なぜ家康は千年の都に背を向けて、江戸で幕府を開いたのか。(略)
 ひとつ考えられるのが、秀吉による朝鮮出兵の失敗です。
 信長や秀吉は外交重視で、日本の中心を畿内に置き、堺や博多から大陸に進出しました。また、交易も積極的に進めました。
 必然的に、列島の重心は西に偏り、東は疎かにされます。しかし、秀吉の朝鮮出兵は大失敗に終わります。
 このため、家康は外交重視から内政重視に方針を転換するのです。(略)
 家康はおそらく、関東や東北には開発の余地が大いにあると考えていたのでしょう”(172〜173p)

白状すると、私は「壬申の乱」と「関ヶ原の戦い」は知っていましたが、「青野ヶ原の戦い」はすっかり忘れていました。
そんな私でも楽しめた日本史の本でした。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授、博士(文学)。
1960年、東京都生まれ。1983年、東京大学文学部卒業。
1988年、同大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。
同年、東京大学史料編纂所に入所、『大日本史料』第5編の編纂にあたる。
東京大学大学院情報学環准教授を経て、現職。専門は中世政治史。
著作に『中世朝廷訴訟の研究』『新・中世王権論』『武力による政治の誕生』『戦いの日本史』などがある。

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