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2018年11月14日00:16

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その時より、野とともにあった人 稲垣喜代志遺稿集

 昨秋、急逝された名古屋の地方出版社、風媒社の創業者、稲垣喜代志さんの遺稿集が出版された。題して、『その時より、野とともにあり』(風媒社)。

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 まことに適切なタイトルだと思う。まさに稲垣さんは「野とともに」あった人だ。
 東京の「読書新聞」に数年勤めた稲垣さんは、あるとき、そこで取り上げられる書やその書き手などがすべて東京への一極集中であることに気づく。
 たしかに東京は文化の中心かもしれないし、それらをとらえて飯のタネにしてゆくには、営業面での効率などからしても東京が有利に決まっている。
 しかし、そこからは「野」ありよう、「野」の志などは除外されているのではないか。少なくとも軽んじられていたり、あるいは、掬い上げらてはいないのではないか。

 そう気づいた稲垣さんは、郷里刈谷に近い名古屋に出版社を構え、「すでに世に出ている著名な人やアカデミズムの内側の人には書いてもらわない。野にあって人知れず見事に生きている人びとの軌跡を記録として残したり…(略)…そして徹底して弱者の立場にたち、社会の歪みや不正に対して怒りを持ちつづけること」などををコンセプトとした出版を始める。

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         「遊民」同人と 正面が稲垣さん 16年4月

 まさに「野とともに」である。
 実際のところ稲垣さんは、農家の生まれ育ちであり、農作業をしながら農業高校へ通った野の人であった。

 以後、55年、そのコンセプトは裏切られることなく続いてきた。稲垣さんの業績については改めて語るまい。ただ、私との関連で痛恨の思いが残ることを記しておこう。

 この遺稿集の三分の一ほどは、稲垣さんのライフワークとなるべき、「怪人・加藤唐九郎伝説」で占められている。この文章に私はず〜っと伴走してきたといっていい。
 というのは、これは私も参加していた同人誌「遊民」に連載されてきたものだからである。とりわけその後半については、編集責任を担っていた I さんの急逝により、多少PCがいじれる私が取りまとめ役になったこともあって、書き手としての稲垣さんと直に向き合うことが多かった。

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         「遊民」同人と 後列赤シャツが稲垣さん 17年5月

 その頃の稲垣さんは、体調の不良や家庭の事情などもあって筆が進まず、締切りまでに原稿が上がってこないことがほとんどだった。
 それをなだめたりすかしたり、時には脅したり(恐喝ではないですよ)、そしてあるときには一時間にわたる言い訳の電話を聞いたりしながら、私なりに粘ったりもした。
 それが稲垣さんのライフワークだという意識が私にもあったから、なんとか少しでも進めたいと思ったからだ。

 しかし、力及ばず、欠稿のまま見切り発車を余儀なくされたり、写真を多用した短いものにとどまったりした号もあった。
 結果として、昨秋の「遊民」の終刊号には掲載はあったもののついに完結には至らず、未完のままで終わった。ただし稲垣さんもそれを意識していて、文末では、わざわざゴチックを用いて未完と記している(この単行本所収では普通に明朝体で「未完」となっている)。

 その終刊号を発刊して幾ばくもしない間に亡くなられたのだが、その前にお目にかかった折には、別途書き足してでもなんとか完結をみたいとおっしゃっていた。

 悔やまれるのは、先輩・後輩などにお構いなしに、私がもっと粘ったりきつく出ていたら、さらに筆が進み、完結には至らずとも、稲垣さんが抱えていた唐九郎への思いをもっと文章として明るみにし得たのではないかということである。

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           「遊民」終刊号 トップが稲垣さんの記事

 唐九郎と稲垣さんは特別の仲であった。余人にはわからない面やエピソードを数多く知っていたのが稲垣さんだった。それがいま、稲垣さん共々闇の彼方へ行ってしまったことをとても残念に思う。
 今となっては、自分の力不足をただ嘆くばかりだ。

 稲垣さんが初志である在野の精神を貫き、野に生きる人びととつねに共にあったことはいくら強調してもし足りない。
 この先達と共に過ごした日々を回想しながら、私もまた、「野の語り部」でありたいと切に思っている。


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