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2018年05月29日11:07

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日大騒動

今、日大アメフト部の悪質反則タックル事件で日大騒動が起きているが、これに対する日大の対応を見ていると昔起きた日大紛争を思い出し、日大の当局は今も変わってないんだなと思った。

その昔学生運動が盛んなころ1960年代に入りそれまでのイデオロギー闘争が少しづつ学園紛争に変わっていった。その運動は全国の大学に波及し学園改革を求めて学園封鎖やデモ、抗議集会などが盛んにおこなわれるようになった。いわゆる全共闘時代である。

そんな中で日大は他の大学とはちょっと違い大学当局は右翼と結び、体育会系の学生を使って学生たちを抑え込んでいた。
ところが大学の巨額使途不明金が発覚したことを契機に学生が立ち上がり、全共闘が学園改革と理事の退陣を求めて学園をバリケード封鎖した。

学生側と大学側は話し合い、大学側は学生側の要求をいれて大学の改革と理事の退陣を約束した。
ところが当時の大学のボスである古田会頭は約束を破り機動隊を入れて封鎖を解除し全共闘議長(秋田明大)以下主だった学生を逮捕させた。
理事は全員居座り古田会頭は会長と職名を変えて以後も君臨した。

この日大紛争の終了と同じころ東大安田講堂に立てこもった東大紛争の終焉とともに学園紛争は下火になっていったが、一部は地下に潜りテロ活動を行う過激派となっていった。いわゆる赤軍派や中核、革マルなどの過激派である。

日大は当時からマンモス大学だったが、学問の府として学生を守るという立場ではなく授業料を払う金ヅルとしてしか見てないところがあった。
今回の騒動を見ても大学が当事者であるにもかかわらず、説明もせず、責任を取ろうともせず学生を切り捨てようとしているように見える。
ちょうどその昔の日大紛争を彷彿とさせる。


そころ私自身は運動からずっと以前に離れていたし、日大の学生でもなかったので詳しい事情はいまもって知る由もないが、当時のことを思い出すと隔世の感がある。
当時神田はカルチェ・ラタンと化し、当時の歩道は砂地の上に20〜30cm厚さ5cmぐらいのコンクリートブロックを敷き詰めただけのものだったがそのブロックをバリケードの中に持ち込み砕いて機動隊へ投げていた。神田の歩道はすべて剥がされむき出しの砂地になっていた。
地方から動員されたパトカーが街中を走り回っていて世の中騒然としていた。

その結果どうなったかと言うと日大は受験者が激変し定員割れが続いた。
今回の騒動も忘れられず長引いたりすると来年の受験者数に少なからず影響するだろう。
(しかし”人のうわさも75日”という言葉があるように来年には忘れられているかもしれない。)



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