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2018年04月21日02:01

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言語論

今日のご飯は豚肉とキャベツとピーマンの普通の炒め物と、もやしとわかめの和風豆板醤ナムルと、豆苗とミニトマトと厚揚げのゴマドレサラダ。厚揚げはレンチンした後にトースターで焼き目つけて油抜きした。それにしても生の豆苗美味しい。


さておき。

今日気の迷いで一瞬対価が返ってくる形でブログやってみようかと思ったのだけど、自分には難しそう。

ステマとか面倒だし、文字の色とか枠とか作りたくないし。
レイアウトとかフォントとかは、文章を普段読まない人に分かり易いものであって、読み手に一番残る情報量が多いのは文章だと思う自分からすると、参入はできないだろうなぁ
と。料理ブログならいけそうな気もしないでもないけども。

趣味ついでに副収入みたいなことを思いついただけだから、別になんともない。
某呟き場に自分の言葉を晒すことすら断念した身としては、なかなか無謀な思い付きだった、ということだ。

でも、呟きに参加している日本人は日本人の総体ではない。知恵袋とかなんとかチャンネルに書き込んでいる人たちと同じように。

簡潔に読んでもらうっていうことより、情報としては数十文字で済むことをもったいつけることが文章力だ、みたいな感じみたい。

公にしたくないならそもそも書くなよって言われそうだけど、ここは趣味だから勘弁してもらいたい。


ともあれ。



昨日の国籍法のやつは、母が日本籍で父が外国籍の時の子の話で、児童扶養手当の件は、母子家庭の場合に、父から認知された子供は手当てを支給しないっていう規定に関して、
父から認知されたからといって、父と生計を同じくして浮揚されているとは限らないっていう点で憲法違反になった裁判。

まだ原文復習してないから暫定だけど。


日記的日記。

今日は久々にソトの人と通話した。
敬語の本を参照しながら準備してしたから、おおむね上手くいったと思う。

応対してくれた女性は印象良かったけど、その後の男性はなんだか敬語と人格が一致していないように聞こえて、トータル登録先の企業としてはどうなのだろうと思わなくもなかった。

で、思ったのだけど、敬語のやりとりって穴埋めと選択問題みたいなものだなって。

様様の敬語の本のはしがきには、敬語は気遣いだ、みたいなことが書かれているのだけど、気遣いっていうよりは、武装な気がする。

中身がこもってなくて、それさえ言えば良い、みたいな。
そういう鎧すら纏えない者を排除するっていう意味では分かりやすいと言えばそう。
ルールが厳密にかっちり決まったものでもないみたいだから、経験則が支配する領域なのだろうなと。

尊敬語と謙譲語の違いが分かっていれば良いのかなって。

普段の言い方から改めるっていうことも書かれているのだけど、そこはもともとクリアしている。自分と過ごしたらおそらく言葉遣いが柔和になる、はず。


どういう言葉を使うのかっていうのも環境に依存している。
で、これって自分の身近な人間関係の人が使う言葉ももちろんある。語彙の水準を合わせないと疎通ができないし、方言なんかもきっとそう。

でも、一番の環境は何だって言われたら、自分の脳内言語圏。
自分からは離脱できないし、その自分は、だいたいは惰性で取捨選択していくし、ここを改めないと、丁寧語を使っても皮を被っていることになる。

言語圏はそのまんま価値観に繋がる。

なんだか壮大な話になってきたから、ちょっと戻って。


硯の言語圏の話。

言葉遣いが曖昧で率直じゃないって指導されたこともあった。
もっと喜怒哀楽をストレートに言葉で表現しろよって。

それを言われたときは、あぁ自分を偽っている部分があるのかなって思ったりしたのだけど、思い返すと、もともとそんな子供でもなかった。思春期以降、あまり強い言葉を使わないっていうことをしてきたのだけど、もともとそういう人物だっただけ。


強い言葉っていうのは、喜怒哀楽に直結する言葉とか、全否定全肯定をその言葉だけで示してしまうやつ。

子供の読書感想文じゃないけれど、それを表現してしまったら、その感情に含まれる無数の感情にならない言葉がそこと一緒くたにされてしまうのは、なんだかもったいない。

大明神は、そこのところをうまく察してくれていて、分かり易いって言ってくれるから、もたれ掛かっている。硯より硯のことを把握できそうな人。

感謝は言語表記では間に合わないから、現実化しないとな、という感じ。



戻って来て。


価値観と言語圏。

当人が使う言葉って、自分が取り入れて消化してきた物事の結果だったりする。

英語が堪能な人は日本語を英語的に分解して扱えたりするし、諸々の学問の習得があれば、それにカスタマイズできる。

要は、語彙のこと。

語彙って一般的には言葉の意味を理解しているって評されるけど、もっともっと深い所にあると思っている。

当人の環境として言葉を知識としてしか取り入れないっていうことになると、単なる雑学王になって、環境を改善することにはならない。

どれだけ言葉を広辞苑的に増やしたとしても、ちゃんと扱える言葉は自分の人格と直結したものでしかない、ということ。

っていう意味での語彙が、価値観と繋がる。
価値観っていうのは、当人が受け入れることができる語彙。


言葉を受け取ることを拒否することを集計していって、そこに枠を付けたものが価値観になる。

例えば、普通の異性愛者の人が、同性愛者の言葉を受け取れられるかって言ったらなかなかない。ある人は枠が広いし、ない人は限定されている。


まとめ。


言葉っていうのは、そんなに客観的なものではないっていう説。


追記したいところだけど、蛇足だからやめとく。
おしまい。

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