mixiユーザー(id:34658408)

2018年03月23日16:47

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オイラート、カルミキアについて − ほとんど、コピペで申し訳ないのですが…

国というモノはどの国であれ、諜報には安全保障の要としてそれなりの組織をもち、資金を投入します。

陸軍にあっては、綏遠(厚和 フフホト)の興亜義塾がそのような機関のひとつでした。官立の機関としては、善隣協会、張家口の西北研究所などがあったように聞いています。

オイラート、オイラトも当然、研究の対象であったと推測しています。

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清朝以降のオイラト
清は征服したオイラトを満州語でオーロトと呼び、モンゴル諸部と同じく盟旗制度によって編成し、各部族長に爵位を与えて貴族として遇するとともに自治を認めた。清朝治下のオイラトは、モンゴル高原西部のホブド地区に30旗、イリ将軍管轄下のジュンガリアに17旗、青海辦事大臣管轄下の青海地方(チベット・アムド地方)に30旗があった。また、中央チベットのオイラト人は、1717年にグシ・ハーン王朝が断絶して後は、カンチェンネー(中国語版、ドイツ語版)、ポラネー(中国語版、ドイツ語版)らチベットの権力者の属下に入り、1751年、清朝がポラネーの後継者ギュルメナムギャル(中国語版、ドイツ語版)を「清朝に対する反乱」を企てた廉で謀殺した際、駐蔵大臣の管轄下に移されて8旗に編成された。

清が崩壊し、モンゴル国がボグド・ハーンのもとに独立を宣言すると、ホブド地区のオイラト諸部はモンゴル政府に従い、モンゴル国に編入された。モンゴル国はアルタイ山脈方面のオイラトをも併合しようと軍を派遣したが、中国によって阻まれ、この地方は新疆省を経て新疆ウイグル自治区に編入された。

中央チベットのオイラト人は、清朝が滅亡するとチベット政府の統治に接収され、清朝軍の残党をラサから駆逐するのに功績のあったセラ寺の寺領となった。彼らはチベット社会への同化が進み、1950年の段階で、人口は20000人弱、オイラト語はいくつかの単語を操れる程度となっていた。

ヴォルガ川流域にいたトルグート部(en:Kalmyk Khanate)は、18世紀に入るとロシア帝国による圧迫に苦しみ、イリ川渓谷がジュンガルの消滅によって空き地となったことを知って、指導者ウバシ・ハーン(ロシア語版、ドイツ語版)は故郷への帰還を決意した。このとき、ヴォルガ川の西岸にいたトルグート部民はヴォルガ川が凍結しておらず渡ることができなかったためにヴォルガ地方に取り残され、そのままロシア帝国統治下に組み入れられた。彼らカルムイク人はソビエト連邦のもとでカルムイク共和国を形成し、現在に至っている。

モンゴル国がモンゴル人民共和国となると、オイラト人たちは西モンゴル人と位置づけられ、多数部族であるハルハに対する少数部族として扱われたが、文化的にはハルハ・モンゴル人への同化が急速に進んだ。

一方、新疆のオイラト人は、民族的に圧倒的に少数派であり、周辺の漢民族、ウイグル人、カザフ人などとの混交が進んでいる。中華人民共和国においては蒙古族として識別され、内モンゴルのモンゴル人と同一民族として扱われた。その後、文化的自覚を強める中で新疆においてもトド文字にかわってモンゴル文字が使われるなど、内モンゴルのモンゴル人との民族意識の一体化が進み、様々な外因で西モンゴル人かオイラトモンゴルという用語で呼ぶようになっている。それらは、オイラト族の文化、習慣に大きな変容を与えている。
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源 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%88#%E6%B8%85%E6%9C%9D%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%88

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