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2018年03月18日22:35

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ザ・グレーテスト・ショーマン

演劇や音楽が上流階級の人々だけのものだった19世紀半ばのアメリカで大衆娯楽をもたらした伝説の興行師P・Tバーナム。1871年にサーカスやいろんな出し物を総合した「地上最大のショー」を展開。翌年にはサーカス巡業のため専門の列車を運行させ以後ほかのサーカス団でも使われるようになった。

「THE GREATEST SHOWMAN」は、そのP・Tバーナムをモデルに、「ラ・ラ・ランド」で昨年のアカデミー賞に輝いたベンジ・バセック&ジャスティン・ポールが楽曲を担当、レミゼラブルのヒュー・ジャックマンが主演をつとめたオリジナルミュージカル映画だ。

もうヒュー・ジャックマンが石丸幹二にしかみえない(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=AXCTMGYUg9A&feature=share

ひとことでいえば、貧しい下層階級だった彼が成功を収め上流階級の人々を見返す(妻は上流階級の出)というアメリカンドリームの映画だが、いわゆる社会的マイノリティーである人たちの苦悩だけでなく、彼らを見下す権威を憎む一方で自分もまたそちら側の人間になりたいと憧れる悲しい性(さが)をも描いている。

かつて舞台やオペラなどの文化芸術に劣るものとされた大衆娯楽(映画などのエンタメ含む)も、今はもう十分に評価される時代である。

それでもまだ当事者たちには、一流に対する二流コンプレックスが根強くあるのだなと考えさせられる映画だ。
いくら頑張って実績を出しても金持ちになっても見下される主人公の苦悩は、決して成り金を認めない上流・権威との対比を通して、すべてのマイノリティーの人々の悲しみと重なっていく。
マイノリティーとは少し前なら奴隷制度や黒人差別、女性蔑視などにより虐げられていた人々であったのだが、現代はさらにLGBTや難民などマイノリティーも多岐にわたっている。
特にこの映画でスポットをあびるマイノリティたちはFREAK やUNIQUEといった人々。ひげ女、小人、大男などいわゆるふつうじゃない奇形の人々である。彼らが歌う「THIS IS ME」は虐げられた人々の魂の叫び、プロテストソングだ。
https://www.youtube.com/watch?v=XfOYqVnFVrs&feature=share

これが私。ふつうじゃないかもしれないけど、私は私。唯一無二の存在。これがありのままの私。私はふつうのみんな同様に存在価値があるし、愛される権利がある・・・
生まれつき一流、生まれつき裕福、生まれつき健常者の人には決してわからない痛み(コンプレックス)を持つ人々の気持ちを歌い上げている。

FREAK  「奇形」「きちがい」
UNIQUE 「面白い」「変わっている」「独特」

「ユニークな人だね」というと「面白い人だね」「変わった人だね」というニュアンスで言う事が多い。が本来の意味は「ただ1つの」「無類の」「特別な」というものであり、「uni」はラテン語の「1つ」という意味でこれが派生して出来た言葉が「unique」だそう。

「ユニークな人」を「変わった人」と捉えると、同質性を好む日本人には好ましくない言葉なのかもしれないが、「unique」は「個性的な」、さらに言うと「かげがえのない」という意味もあり、「ユニークな人」にはネガティブな要素はない。

ちなみに、PEANUT 「くだらないやつ」「短小」という言葉も出てくる。
PEANUTというと、スヌーピーを思い出すのだが・・・


オペラや演劇は芸術で、映画やサーカスは芸術ではない。今でもその固定観念が芸能の世界ではあるのだろうか。
ブロードウェイの劇作家は、ハリウッドの映画監督より格上なのだろうか。

たまたま「THE GREATES SHOWMAN」と同時期に、4年前オスカーをとったイニャリトウ監督の「BIRDMAN」をテレビで見たのだが、この映画の主役である元ヒーローものの映画スターは、いわゆる権威(芸術批評家陣)からことごとく侮蔑される。

「THE GREATEST SHOWMAN 」 でも、主人公は「この成り上がりの大嘘つき野郎が・・。お前がやっているのはすべてFAKEだ。ホンモノを見せてみろよ。」と人々にさげすまれ、彼が試みるエンターテイメントはことごとく妨害される。

どこにでもどんな国でも差別はある。肌の色 生まれ育ち 貧富の差 血統・・・

どの世界にも成り上がりや成金と言われる人たちがいるが、アメリカという自由の国でも、その生まれ育ちによって差別は根強くあった。しかしその差別をものともせず成り上がった者たちがホンモノの成功者となった。移民国家アメリカの歴史は成り上がりの歴史だ。エンタメ業界もそうだろう。

日本にも昔、見世物小屋というのがあったが、いわゆる奇形やバケモノを見たくて人はお金を払って見世物小屋ヘ入ってくる。そこにあるのは明らかに差別視線だ。よくあんな姿かたちで生きていられるな、という嘲笑や好奇の目だ。彼らにFREAK(奇形のモノたち)への敬意はないし同情ですらない。奇形の者たちを見て、自分はいま大変だけれどあの者たちに比べたらまだまだマシだと、安心するための材料にする。

また奇形ではないがユニークな人つまり芸人は普通の人にはない芸能という能力を持ち、それを活かして生業としているが、そんな芸人を小馬鹿にして笑うことで人々は娯楽を得るわけだ。しかしこの「小馬鹿にされる」のにも程度がありよほどのプロ根性(割り切り)がないと乗りきれない。芸人(人を楽しませる者)と差別される者は紙一重なのだから。

芸人を笑い小馬鹿にする文化はやはり芸術とは呼べない。芸術には形式美と品格が必要だ。それが文化人たちの論理だ。一方、人は刺激を求める。ストレス発散を求める。たとえウソ(FAKE)でも面白ければいいじゃないか。楽しめる出し物ならお金を払う。品位や形式美などなくても。

女が髭をはやしている姿はどうみても異型だ。しかしそのグロテスクな容姿から美しい歌声が発せられる。この矛盾に人々はわくわくし、お金を払うのだ。非日常や異次元体験を提供する場、
それがサーカス。That's エンターテイメント。観客にとってはすべてウソの世界だが、見せる側にとっては過酷な現実だ。

再三言うが、挿入歌「This is Me」がほんとうに素晴らしい。生まれつき疎まれ差別されつづけた人間の悲しみに裏打ちされた人生賛歌だ。
悲しくて悲しくてなんで生まれてきたのかと自分を呪う。それでも私は生きていく、、、心無い言葉のナイフで切り付けるなら、涙で洪水を起こしてそいつらを洗い流してやる、、、と髭の歌姫(キアラ・セトル)が力強く歌う。

     






蛇足)

映画「バードマンあるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡」(2014年アカデミー賞受賞)

「バベル」「21グラム」などシリアスな人間ドラマで高い評価を得ているメキシコのアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が、ブラックコメディに挑戦。「バードマン」というヒーロー映画で一世を風靡した俳優が、再起をかけてブロードウェイの舞台に挑む姿を、実際にヒーロー映画「バットマン」で一世を風靡したマイケル・キートン主演で描く。この意図はみごとに当たった。娘役はいまをときめくエマ・ストーン(「ラ・ラ・ランド」でアカデミー主演女優)

かつて全米があこがれたヒーローは今はだらしなく崩れた体型と禿げ上がった頭の中年男。それを実際に若い頃に「バットマン」で今は一発屋のおっさんになっているマイケル・キートンが演じているところにリアリティーがある。

現実と妄想の世界が一体となっていわゆる統合失調症の人が觀ている景色が描かれる。ビルの屋上から飛びおりたい。そう思うことがある。鬱状態で、もうこの世から消えてしまいたい、死ぬほうが楽だ、と思うときだ。また、ドラッグなどによる躁状態でも、自分はなんだってできる万能感と高揚感で人は飛び降りたいと思う。だって私は飛べるのだからと。

この映画の場合、主人公は本物のバードマン(鳥人間)だから本当に飛べているのではないかと見ている者も思ってしまう。実際彼は超能力も使えるようだし。ワンカットの長回しの中に、現実と非現実(妄想)が共存しており、躁と鬱も交互に出てきて、そのどちらかわからなくなる。わからないから悲劇ばかりでもないし喜劇ばかりでもない絶妙なユーモアあふれる作品に仕上がっている。
「実際に空を飛べたらあんな感じなのだろう、すっげー快感だろうな」でも、「ふつうにビルから飛んだらそのまま地面に叩きつけら即死だろうな」などと思いながら観ている自分がいて、なんだか不思議な感覚。

演劇の世界で評価が高くてもマスの規模では全く知名度もないし人気がないのと、人気も知名度もバツグンだがいわゆる権威からは認められていないのと、どちらがつらいのだろう?
財産と名誉。この両方を手にしたとき人はようやく認められたと自信を得るのだろうか?どちらか片方だけ得られても満足できない。マズローの欲求なんちゃらではないが人間は因果な生き物だなぁと思う。









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