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2017年10月12日20:09

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なぜか歌舞伎座でマハーバーラタ

今年は夏に小池博史の舞台を観て、久しぶりに大好きなマハーバーラタの世界を堪能したと思ったら、こんだなんとあの歌舞伎座で、堂々「十月大歌舞伎・昼の部」として、歌舞伎版マハーバーラタを大真面目にやるというではないか。
どうしちゃったのよ全く。
しかし猿之助が『ワンピース』をやるくらいだし、歌舞伎ってのは漫画やアニメと同様、コンテンツ的には何でもありだから、やっちゃいけないって法はない。
アルジュナとクリシュナが戦車の上で見得を切るところを、この眼でしかーと見てやろうじゃぁござんせんか。
どうせ大したこたぁありゃしめぇ、新装成った歌舞伎座の、その目新しさと豪華さを、いざ見物と洒落込みましょう・・・なんてね。
つまり、全く期待せずに行ったわけです。

休日の天上桟敷のチケットは、発売と同時に瞬殺。
2番目に安い、けれど花道は全く見えませんのでヨロシクという席を、並びでとれずに離れ離れで2枚押さえることができたのは、発売開始4分後。
みなさん、そんなにこの出し物、観たいですカ?


久しぶりに銀座へ行き、いざ建物の前に立ってみると、やや、以前と何にも変わらないじゃありませんか。
そうか、背後に松竹のビルができただけで、小屋自体のデザインはさして変更してなかったのだな。
中ニ入ル。
ん?中もさほど変わっていないような・・。
まぁわたくしは、これまで歌舞伎座には4-5回くらいしか来たことがないので、そんなによく憶えてるわけではないのですが。
新歌舞伎座見物という第一目的は、こうしていささか肩透かしをくらった結果となった。
では第二の目的、よせばいいのに『極付印度伝 マハーバーラタ戦記』は、どうであったか。


柝(き)が打たれる。
幕が上がる。
ひな壇に、黄金の衣装をまとったブラフマン、ヴィシュヌ、シヴァなどヒンドゥの神々がずらりと座している。
この瞬間に、この舞台は意外にアタリかもしれぬという予感を覚える。

神々が嘆いている。
いつまで経っても人の世に争いが絶えぬ。何かよい方法はないものか。
花道から太陽神が進み出て、クンティ(汲手姫)という心清き姫とまぐわって、その子に世を平安に治めさせたいという。
すると反対側の花道から登場した帝釈天が、自分も彼女と交わって、息子に強大な力を授け、支配させたいと言い出す。
かくして運命の乙女汲手姫は、まず太陽神の子を孕むが、恐れをなした彼女は赤ん坊を美しい厨子に入れて川に流し、やがてその子は拾われて御者の子として成長する。
本作の主人公、太陽神の子、カルナ(迦楼奈)だ。
その後彼女はパンドゥ家に輿入れし、王の三番目の子、アルジュラ(阿龍樹雷王子)を産む。
帝釈天=戦いの神インドラの子アルジュラは、地上最強の戦士として成長する。

マハーバーラタは、従兄弟同士のパンドゥ家とコーラヴァ家の王位を巡る争いの物語で、大筋でいうと、正義を体現するパンドゥ家の三男アルジュラが主人公、対するコーラヴァ家の王子は悪の権化といった扱いになる。
今回の歌舞伎の舞台の主人公カルナ(迦楼奈)は、正のパンドゥ家の母親が産んだ長子だが、母の婚外子であるためパンドゥ家に受け入れられず、負のコーラヴァ家長子のドゥルヨーダナ(鶴妖朶王女)との友情でコーラヴァ家に迎え入れられ、最終戦争の際もコーラヴァ方最強の戦士として実の兄弟パンドゥ家と対峙することになる。
愛する母と血を分けた兄弟への屈折した愛情と、自分を救い見出してくれた鶴妖朶王女への忠誠との板ばさみになった主人公迦楼奈の深い苦悩が、この作品の大きなテーマとなっている。

コーラヴァ家長子のドゥルヨーダナの役名が「鶴妖朶(ヅルヨウダ)王女」であることからもわかるように、この舞台ではドゥルヨーダナを女性にし、女形が演じる。
この役を獲得したのは、中村七之助。
故中村勘三郎(私の世代はカンクローといった方が通りがいいが)の息子で、現六代目勘九郎(前中村勘太郎)の弟だ。
サッカーファンのみなさん、兄ちゃんの方は吉田麻也そっくりで、二人はよく間違われるそうですよ。

普段全く歌舞伎を観ない私は、主役が菊之助で、その親父殿も出ていること以外は何も知らずにこの舞台を観たが、鶴妖朶王女の声の落ち着き、気品、そしてなによりその威厳に圧倒された。
彼女が声を発すると、その場にいる誰もが、まるであらかじめ彼女の声を、命令を聞くために、そこに参集しているのだという気にさせられる。
最初の幕が終わり、あわてて配役表を見て驚いた。
七之助??
カンクローの息子、あの吉田麻也か、その弟の、どっちかだよね?
TVかCMで見たけど、こんな大物だったっけ?

その鶴妖朶王女。
迦楼奈が初めてパンドゥ家とコーラヴァ家の前に登場して、弓の腕を阿龍樹雷王子と競って勝敗がつかず、自分が御者の息子であることを告白して、身分の卑しさを罵られた場面。
そうだそうだと王族たちが騒ぐ中で、コーラヴァの王女は一言問うのだ。
「御者の息子ではいけませぬか?」

ああ、玉三郎がここにいたならば、こういう一声を発したかもしれぬ。
つづく彼女の台詞を、私は確かには憶えていないけれど、彼女は一触即発の場を鮮やかなまでに手玉に取り、すべてを自分優位に運んでしまうのだ。

鶴妖朶王女は苦境に陥る迦楼奈の実力を認めた上で、枝国の王にとりたて、その場で灌頂の儀も執り行う。
何故、見ず知らずの私にそこまでしてくださるのか?
王女よ、私は貴女に何をお返しすればよいのかとの迦楼奈の問いに、彼女はこう答える。
永遠の、友情をと。

これが、迦楼奈を最後まで縛ることになる。

パンドゥ家とコーラヴァ家はそれから、謀略、賭け、追放、帰還、復讐と、神の掌の上で弄ばれるかのように争いを続け、ついには最終戦争に突入する。

そして阿龍樹雷王子と迦楼奈の一騎打ち。
両の花道から登場した敵と味方が、紫と黄金の甲冑を煌かせ、戦車を駆る。
戦場を、2台の戦車が猛スピードで駆けまわり、無数の矢が雨のように降りそそぐ。
舞台は炎と土埃と血潮の舞い狂う戦場となり、柝の音が耳も裂けよと鳴り渡る。
・・・歌舞伎は、こんなことまで可能なのか!

しかし迦楼奈は、自分の立てた誓いと相手の巧妙な呪いのために、肝心の武器を使えず、相手を倒すことはできない。
帝釈天インドラと那羅延天ヴィシュヌ=仙人久理修那(クリシュナ)の庇護を受けた阿龍樹雷王子の剣に斃れるのは、あらかじめ決められた運命であったのか。
迦楼奈は自分と弟の剣を、自らの身体に突き立てる。
兄上!と叫ぶ阿龍樹雷。
知っていたのか・・?
はい、今朝陣地を立つ時に母上から聞いておりました。
私はこの世を力で支配したいのではなく、徳の高い兄の百合守良(ユリシュラ)に王位を継いでいただきたかっただけなのです。
これを聞いた迦楼奈は、安堵して息絶える。

一方、鶴妖朶王女は、パンドゥの二男、風韋摩(ビーマ)と対峙する。
女だからといって油断めさるな、そう言いながら、鮮やかに殺陣を繰り広げる。
しかし彼女の耳には、すでに迦楼奈死すとの報が入っていた。
わたくしは、間違っていたのかもしれない・・・。
その迷いを、息子を迦楼奈に殺されていた風韋摩は見逃さなかった。
深紅の鎧を身につけた鶴妖朶王女が舞台上の階段を転がり落ち、骨肉の争いは終わる。

三幕四時間になんなんとするこの舞台を観ていて、もはやこれが歌舞伎であるとか、ヒンドゥの叙事詩であるとかは関係なく、人という生き物の度し難さと、運命の苛烈、そしてこの世の無常を、全身で感じ、打ちのめされた。


マハーバーラタの歌舞伎版と聞いてすぐに配役を確かめた時には、主役尾上菊之助が演じるのはカルナだと知って驚いた。
私が思うところ、カルナはマハーバーラタで最も興味深い登場人物であり、個人的に一番思い入れのあるのも彼だが、それでもカルナは脇の一人だ。
主人公はあくまでもパンドゥ家のアルジュナ、そして対するのは、悪の権化コーラヴァ家の長男ドゥルヨーダナ。
カルナをまっすぐ見つめて「永遠の友誼を」と言うドゥルヨーダナに、悪の親玉として以上の魅力を感じてもいたが、このような構成と配役になるとは。
ドゥルヨーダナの中村七之助が、こんなにいい役者だなんて想像もしなかった。
もう、吉田麻也の弟だなんて言わせない!(言ってるのは私だけか。ごめん麻也、愛してるよ。)

カルナを主人公に据え、ドゥルヨーダナを女形の七之助に演じさせたこと。
これが、此度の舞台の大成功の決定的な理由だと断言する。


この舞台を作り上げたのは、歌舞伎界の人ではない。
宮城聰(みやぎさとし)という現代劇の演出家で、劇団ク・ナウカを旗揚げし、フランスのアヴィニョン演劇祭で『マハーバーラタ ナラ王の冒険』や『アンティゴネ』を上演してのけた男だ。
私は残念ながら、TVでク・ナウカの『王女メディア』を観たきりなのだが。(これは物凄い舞台です。)
主人公をカルナと考えたのは、脚本の青木豪。
そして、歌舞伎の鳴り物と交互に、禍禍しくもドラマチックなパーカッションを打ち鳴らす音楽を担当したのは、棚川寛子。
この音楽がまた、素晴らしい。
高橋佳代の衣装も含め、マハーバーラタの世界を銀座の廻り舞台に載せるにあたって、物語世界を小さく丸めず、むしろ深めかつ湧き上げるようなイマジネーションを繰り広げていたと思う。

しかし特に第二幕では、坂東亀蔵のビーマ(彼は『南総里見八犬伝』で快男子犬田小文吾を口吻鮮やかに演じた)と中村梅枝の夜叉の出会いを舞踊でたっぷりと見せ、別の場面では舞台上に囃子方を載せて音楽をしっかりと見せ聴かせ、歌舞伎の醍醐味をばっちり盛り込むことも忘れていない。

マハーバーラタを、歌舞伎にする必要があるのか否か。
普遍的な物語は、ありとあらゆる文芸の素材たりうることに疑いはないが、それを具現化するにあたって、それぞれのジャンルにどう導きいれるかは、演出家の腕次第だ。
インドのヒーローと白塗りの二枚目やお姫様が混在するビジュアルに、違和感を抱く場面が幾度もあるのは事実だが、回を重ねれば、いずれこなれてくるのかもしれない。
とまれ、何度も言いますよ。
舞台化は大成功です。




※追記
最後の方で、「坂東亀蔵は『南総里見八犬伝』の犬田小文吾役と書いていますが、どうやらこれは私の記憶違いのようです。面目ない。


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