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2017年07月25日18:26

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「曖昧さ」すら「明確」に描く〜ミケランジェリのドビュッシー

梢をわたる風,水の反映など,自然に美を見出した「天然の人」ドビュッシーに対し,血の通っていない人工物に,メカニカルな冷たい美を見出したラヴェル。
そんな単純な対立項を,いともたやすく打ち壊すのが,ミケランジェリが弾くドビュッシーだ。

優れた音楽評論家であると同時に,自らもピアノの名手である青柳いずみこ氏に「ドビュッシーの水は,藻や青みどろが浮いていそうで飲みたくないが,ラヴェルの水は飲めそう」との名言がある。
モネの「睡蓮の池」のような,少しよどんだドビュッシーの水(ex.「水の反映」)に対し,清流ほとばしる,澄みきったラヴェルの水(ex.「水の戯れ」「オンディーヌ」)。

ところが,ミケランジェリが弾くドビュッシーの水は,決してムリしなくても,飲めそうな気がする。
そんな,どこまでも澄みきった,しかし決して蒸留水のような無味乾燥ではない,雪融けの澄み切って,鉱水質をたっぷり含んだ,沢の清流を汲み取った天然水のような,ミケランジェリのドビュッシー。

ドビュッシーのピアノ曲も,ラヴェルのピアノ曲も,そのきらめく,あふれる色彩ゆえに,多様な表現が可能だと思う。

どこまでも冷徹に譜面に忠実に弾くことも,叙情的に感傷的に弾くことも,サロン音楽の系譜に従ったエレガンスをたたえた弾き方も,そして仮面の背後に隠された,暗さ,怪しさを漂わせた弾き方も。
どのように弾いても,「ドビュッシーらしさ」「ラヴェルらしさ」は,変わらない。
それはちょうど,人物画や風景画を,デッサン,水彩,油彩,パステル画と,どのような手法で描写しても,モデルの人物や風景は,同じということに似ている。

ミケランジェリの放つ音は,そのどれとも異なる。
かつて日本では,ピアノを「鋼琴」と訳したが,ミケランジェリのピアノは,正しくピアノが「鋼」で出来ていることを思わせる。
ガラス質に金属を含ませたクリスタルのように,ガラス質が持つ透明さと,手荒に扱ったら,粉々に壊れてしまいそうな繊細さに加え,金属質が持つメタリックな光沢と冷たさ。そして両者がもたらす,切り子細工のような七色の色彩の輝きを放つ。

サンソン・フランソワの弾くドビュッシーは,ピアノが木と羊毛フェルトという自然素材からできていることを感じさせ,ミケランジェリのドビュッシーは,ピアノが鋼鉄のフレームとピアノ線という,金属質からできていることを感じさせる。
全ての音に全身全霊を注ぎ込むような,それでいて,その命の重さを全く感じさせない,どこまでも透明で澄みきったピアノの音。

非常に矛盾した言い方とは自覚した上で,あえて言葉にするなら,水のきらめき,風のそよぎ,霧,光と影,映像といった抽象的なものの「曖昧さ」を「明確に」描き出す,という感じ。

それは例えば,フランソワのように「曖昧」なものを「幻想的」に描くのでもなく,また昨今の若手ピアニストの傾向のように,テクニックで楽譜に書かれた全ての音符を明らかにすることで,ドビュッシーやラヴェルが,闇のうちに曖昧に秘めておきたかったものまで描き出してしまうのでもない。
「形」として捉えることのできないものゆえの「曖昧さ」,その「曖昧さ」をそのまま写し取って,演奏という形で表現した,というところだろうか。

それは「音楽家は,身のまわりにある無数の自然のざわめきを聞こうともしないのですね。実に多様な自然の音楽、聞く気さえあればたっぷり自然が与えてくれる音楽…。」「大気の流れ、木の葉の動き、花の香気の、神秘な協力が実現するだろう」という,ドビュッシーの言葉と呼応し,響き合う。

そんなミケランジェリもまた,奇人変人ぶりを発揮したエピソードにあふれている。
どうも,私は,こんな異才を放つ演奏家,「伝説の男」たちに惹かれてしまうところがある(^^;)
やはり大好きな,「7割はちゃらんぽらん,3割は神業」と称された「幻想ピアニスト」ことフランソワとは真逆のピアニズム(芸風)だが,エピソードにおいてはミケランジェリもまた,伝説の男ぶりを,遺憾なく発揮している(^^;)

第二次大戦下は,ファシズムに対するレジスタンスとして前線に立つも敵軍にとらえられたが,幸い,敵兵にかつてのピアノの弟子がいて助かった,とか。
スピードマニアで,コンサート会場まで自ら運転するフェラーリやらベンツをぶっ飛ばして乗り付けた,とか。
満席の客が既に入っているコンサートホールで,「今日は,満足いく演奏ができない」と突然リサイタルをキャンセルし,激怒したプロモーターに持ち込んだグランドピアノを差し押さえられた,とか。

今となっては大巨匠のポリーニやアルゲリッチが若き日にミケランジェリに弟子入りした際は,「君たちにもう教えることはない」と卓球の相手に延々つきあわされ,肝心のピアノをなかなか教えてもらえなかった,とか。
「静寂の音とは何かを伝えたかった・・・」等と言っているが(^^;)
こんなセリフまでがカッコいい。

アメリカでのコンサート終了後,不本意なピアノの鳴りに機嫌が悪く(専属の調律師がヤマハの社員だったため,ステージのスタインウェイの調律を担当させてもらえなかった)、誰にも面会したくないと言って楽屋に引き込んだところ,7・3分けに黒縁メガネの青白い顔をした,銀行員か大学教授のような紳士が現れ「ミケランジェリの大ファンで、是非とも会いたい」と言う。粘ること20分,やっと諦めて帰ったそのヤサ男こそ,ジャズピアニストのビル・エヴァンスだったとか。
(実際,ジャンルは違えど,ミケランジェリとエヴァンスの,全ての音に全身全霊を注ぎ込むような,されどその命の重さを全く感じさせない,冷たい硬質な輝きを放つピアニズムは,本当によく似ている)

何より私が好きなエピソードは,ショパン・コンクールの審査員として招かれた際に,審査員特別コンサートとして演奏したところ,そのあまりのパーフェクトな演奏ぶりに,肝心の主役であるはずの,コンクールに出場した若きピアニスト達のやる気を,すっかりへし折ってしまったというものだ。
(ちなみにこのとき,ミケランジェリが推すも,優勝を逃したピアニストが,若き日のアシュケナージ)
天才たるもの,こうでなくては(^^;)

傍若無人,天下無敵,唯我独尊,完全無比,国士無双,空前絶後,徹頭徹尾,透徹音響。
ミケランジェリの特徴を表す言葉を並べてみたら,なんか漢詩みたいになってきた(^^;)

私にとってありがたいミケランジェリのエピソード。
どんなジャンルでも,気に入った音楽家のCDやDVDは,コンプリートして集めないと気が済まない私であるが(^^;),ミケランジェリは,その徹底した完全主義ゆえ,コンサートでも録音でも,本当に納得した,ごく限られたレパートリーしか弾かず,またごく限られた演奏しか世に出さなかった。

そのため,彼が世に出すことを許可した録音も,極めて数が限られる。
ドビュッシーもラヴェルも,ほんの数作しか録音していないため,あっさりとコレクションすることが出来る。
そのいずれもが珠玉の輝きを放つものばかり,駄作無し。
極めて数少ないミケランジェリの録音。
それらをもって「ミケに駄作無し」と言われる。

これを,喜ぶべきか,悲しむべきかは,謎。

スピードマニアの彼にふさわしく,ドビュッシーとラヴェルのわずかな録音は,あっ,という間に聞き終えてしまったので,次はミケランジェリのモーツァルト/ピアノ協奏曲第20番を聴いてみようと思っている。

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