知的で合理的なキャラクターが「子供や動物は非論理的だから苦手だ」とか
「兵法を知らぬ凡愚めが、今に見よ!」ということがある。
要は自称「知的」な彼らのハイレベルで合理的な読みと
まるで合わない言動をとる「こども」「どうぶつ」は行動原理が読めず、対応に戸惑うということだ。
一見非合理的な言動をとる「子供」「動物」ついでに短絡的に暴力を振るう「粗暴犯罪者」だが、
彼らは感覚的、動物的、野性的であり論理的ではないのだろうか?
わざと自分が損するような言動をとる存在はいない。たとえ他人から見ればどれだけ愚かしく見える行為でも、自爆テロや自ら罠に飛び込むような行為でも、あるいは尊い自己犠牲ですらも彼らは彼らの見えている、考えている範囲において合理的に「得」になると考えて動いているのだ。
行動原理や行動のための論理構成が異なるのではない。単に「見えているモノが違う」と言う一点に尽きる。
たとえば私が今を時めく藤井四段と対局するとしよう。私は一生懸命自分なりに考えて指すわけだが、次元が違うくらい「広く」「深く」読んでいる藤井四段からすれば私の指し手は「非合理」に見えるだろう。だが、私は非論理的なわけではない。単に「見えているモノが違う」のであり、「見えている範囲で最善だと思える手を一生懸命指している」のである。
立場が変わって、私がお子さんに将棋指導するときも同じことが言える。一見無意味でダメダメな手でも彼らは彼らなりに「なんとなく」と言う理由も含めて合理的に指しているわけだ。
だから、「あいつらは非論理的だから理解できない」と投げ出すのではなく、彼らの視線まで下りて揃えることで彼らなりの読みの意味を検証するのが望ましい。行動原理がわかれば子供への指導でも動物のしつけでも俄然やりやすくなる。粗暴犯罪者への対応もかなりやりやすくなるというわけだ。
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