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2016年10月09日11:04

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作品を読む  実写版『魔女の宅急便』を観る

 実写版『魔女の宅急便』を見てみた。まずはキキの里が山間の谷里なのに驚く。けどこれは結構悪くない設定だと思った。実家の造りもよかった。東洋風と西洋風の中間な感じで、ありそうだけどファナタジーな感じのギリギリのラインをなんとかつけている。

 加えて、とにかくキキの母親役の宮沢りえがメチャクチャ良かった! いやあ、いいよなあ。とにかくもう演技が申し分なく上手く、上品で知的で落ち着いていて、それで愛嬌と可愛らしさが共存する独特の存在感を醸し出していた。はっきり言って、この映画で一番いいのはこのお母さんだった。

 父親の筒井道隆もよく、キキが落ち着いた海辺の街もまあよかった。明らかに日本の港町なんだけど、ちょっとした美術の工夫で少しだけ洋風、少しだけファンタジックな雰囲気をなんとか出せていた。キキの下宿するグーチョキパン屋は非常にいいセットだった。

 キキの飛行アクションも悪くない。アニメの飛行描写が落ち着いた緩いものなのに対して、こちらはアクロバティックで、プロスタントレーサーのライダーアクションのような面白さがあった。で、これは「宮崎作品よりも期待できるか?」と思った僕がバカだった。

 そもそもだが、『魔女の宅急便』をやる以上、先行するアニメ作品を意識せざるを得ないのは仕方ない。しかし敢えて実写でやる以上、実写ならではの面白さが必要である。また、宮崎作品がある点では原作のテイストを失っている(完全な宮崎駿の作品になっている)ため、原作をいかに読み直すか、という点も課題になると思われた。

 が、正直言うと、動物園の藁の中で寝た段階で、ちょっとイヤな予感はしていた。この藁の中で寝るというモチーフは原作にあるものではなく、アニメの列車のなかで寝るシーンとして登場したものである。そういうシークエンスを一つ一つ模倣してるようでは、先行する宮崎作品に絶対に叶わないのが自明だからだ。

 しかしまあそれでも途中までは見たのだが、参ったのは途中のエピソード、「友達に陰口を言われたので、仲間たちに『魔女の呪い』の手紙を届けさせる」という少女のくだりである。

 はっきり言って、げんなりしてしまった。この映画には女性脚本家が参加していて少し期待した面がる。というのも、宮崎作品があきらかにおじさん目線の「頑張る少女」の物語であるのに対し、原作の方は少女目線で見る「ちょっとおしゃれなお姉さん」の物語であるという点が、決定的に宮崎作品に対する不満だったからだ。

 が、この少女たちのいざこざのエピソードで妙にドン引きしてしまった。ちなみに、うちの奥さんもである。ただ、女性作家には妙にこういうことを書きたがる人がいて、またそういう需要もあるのだろうとは思う。が、『魔女の宅急便』でやられたのはドン引きだった。

 で、最終的にはまったくつまらない映画だった。そのエピソードだけが問題なのではなく、出てくるエピソードの全てが、妙に不完全燃焼なまま終わってしまったからである。魔女だった妹が死んでしまって歌えなくなった歌手とか出てくるのだけど、なんかもっと突っ込んだ話があるのかと思いきや、一回、届けいってなんかちょっと話をしただけで終わり。なのに、ラストのキキがカバを嵐の中運ぶ時には、なんか外に出て大声で歌ってる。

 その他の人々もそうなんだけど、ちょっと知り合っただけのキキがカバを運んでるってのをラジオ中継で聞いて、「ガンバレー」とか叫んでるのがはっきり言っていただけない。そのシチュエーションがリアルじゃない、というわけではない。それだけキキに共感するだけの関係性が、映画の中できちんと描写されてないから説得性がないのだ。

 そのリアリティがない、という点では肝心の「魔女」に対する町の人々の反応がバラバラなのもおかしかった。おソノさんとか、クリーニング屋のおばさんは最初からキキ(魔女)に対して大して恐れを持ってないのに、動物園の兄ちゃんが妙に攻撃的だったり、少女が「魔女の呪い」とか口にするだけで、周囲にいた人々が逃げ出すというなんとも奇妙な描画が続く。エピドードの合理性と整合性が欠けているのである。

 で、最もよくなかったのは、「キキが魔法を使えなくなるスランプに陥る」というくだりだ。これは少なくとも原作の一巻にはないエピソードだし、二巻にもなさそうだ。つまり宮崎駿の作劇なのである。

 宮崎作品は「都会に一人で出てきた少女が、凹んだりスランプに陥ったりしながらも頑張る」のが主題の映画だ。それはそれで一貫性がある(原作とはまったく違うけど)。そのエピソードの最大の山場が、キキの唯一の才能だった「飛べる」力をスランプで失うことで、そのスランプに陥った時にどうするか、なんて話を先輩の絵描き(ウルスラ)から聞いたり、人の善意に触れたりした挙句、本当に大事な時、(友達になれそうなトンボを含めた町の人々の危機「飛行船事故」)にその真価を発揮するというくだりは、長編物語のラストシークエンスとしては最高の出来であった。

 宮崎作品は主題が明確だった。だからそれで物語的な整合性と必然性が、すんなりと見てるこっちの胸に落ちる。けど、この実写版の方は、キキがスランプになる理由もそれほど明確でなければ、それから脱出する必然性もちっとも説得的じゃないのだ。はっきり言って、エピソードとして不要なほどだ。

 そもそも、この実写版の映画は何が主題だったのだろう? 何が見せたかったのだろう? そう思って振り返ってみると、この映画のオリジナリティ(宮崎作品とも原作とも違う点)ってどこなんだろう、と考えると、「悪意ある人々が出てくる」という点に尽きるのである。

 キキを騙した少女とか、最初から魔女を悪いものだと決めつけてる動物園の兄ちゃんとか、なんかそういう悪意ある人々にしかオリジナリティが見つからない。つまりこの作品は、「周囲の悪意にもめげずに頑張ろう」が主題なのか? 

 この悪意が好意に変わるには、それなりに説得的なエピソードが必要だ。つまりそれなりに「深く」関わっていかなければ説得性がないのである。にも関わらず、この映画にはその掘り下げがなくて、その必然性のなさを「ラジオに向かって、みんなが頑張れーとか叫ぶ」描写で埋め合わせをしてるのである。興ざめである。

 驚いたのはエンディングロール中の描写で、友達に「魔女の呪い」の手紙を送った少女が、今度は仲間に「ごめんね」とかいう手紙を送るところだ。いや、それはおかしいでしょ? 最初、友達が陰口を言っていたのだから、別に少女が謝る必要はない。それに「ごめんね」という相手は利用したキキに対してであって、仲間じゃないでしょ? とにかく謝って仲間に入れてもらう、のがこの映画の主題なわけ? まさにまさに、ドン引き。

 動物園の兄ちゃんは嵐の中、「ガンバレー」とか叫ぶ描写があるのだけど、それはカバに対して。まあ、それはいいとして、この「一見狭量だけど、仲間内には優しい人」が「実はいい人」だとでも言いたいのだろうか? いや、その狭量さと身内意識の共存こそ、ヘイト全盛の今や問題なわけじゃないの? 

 この狭量さと歪んだ仲間意識、それでなんの役にもたたない「ガンバレー」がこの映画の主題だったのか思うと、まったくげんなりしてしまった。はっきり言って美術は悪くない。主役の子もトンボ役の子も悪くない。宮沢りえもよかったし、終盤ちょっと出てくる獣医の浅野忠信もよかった。

 …が、それだけ。これだけ文句言うためだけのこれだけ長文書いたのかと思われるかもしれないが、『好き/嫌い』ではなく、何が作品の『良し/悪し』なのか、ということを自分なりに整理した、ということである。
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