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2016年09月25日14:02

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聚光院特別拝観

大徳寺聚光院「創建450年・特別拝観」に行ってきた。

大徳寺聚光院は、永禄9年(1566)、三好義継が父、長慶の菩提を弔うために、大徳寺第107世住職、笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)和尚を開祖として創建した。
後に、笑嶺和尚に参禅していた千利休が聚光院を自らの菩提所としたことから、表千家・裏千家・武者小路千家の三千家の代々の墓所となっている。


聚光院特別公開 http://kyotoshunju.com/?temple=daitokuji-jukoin

・狩野永徳筆『花鳥図』『琴棋書画図』(共に国宝)
・狩野松栄筆『蓮池藻魚図』『瀟湘八景図』『竹虎遊猿図』(共に国宝)
・方丈(本堂)庭園「百積の庭」(名勝)
・茶室「閑隠席」「枡床席」(共に重文)
・千住博画伯筆 障壁画『滝』


創建時の姿がそのまま残る本堂の障壁画は狩野永徳とその父・松栄が描いたものである。
狩野派の当主であった松栄が礼の間の『瀟湘八景図』、衣鉢の間『竹虎遊猿図』、内陣小襖『蓮池藻魚図』を描き、若干24歳であった永徳が本堂中心的機能を持つ室中『花鳥図』、檀那の間『琴棋書画図』を描いた。
昭和54年(1979)にパリのルーブル美術館からモナリザが来日したがその返礼としてフランスで展示されたのがこの聚光院本堂の障壁画だったそうだ。これらは普段は京都国立博物館に寄託しているそうで、9年ぶりの里帰りとか

方丈庭園「百積庭」は、永徳の下絵、千利休の作庭と伝わり、その構図は本堂室中の「花鳥図」に対応したものと考えられている。西側手前には利休が沙羅の木を植えたと伝わる。今の沙羅の木は3代目だそうだ。
「花鳥図」が国立博物館で公開されたときは、すべて横並びに展示されたため、奥行きが表現できず、鳥(せきれい)と鳥(鶴)が対角線上で向き合っている視線などの微妙な設計が損なわれてしまったそうだ。部屋の襖絵のコの字型を活かした構図で右から左へ四季の移ろいを表現し、その視線の行き先は、百積庭へと広がっていくのだという。

聚光院と茶道三千家との関わりを如実に伝えるのが閑隠席、枡床席のふたつの茶室。
茶室に入る前心を落ち着けるスペースには珍しい焼き物で作られた織部焼の釣瓶が。
閑隠席は、表千家七代・如心斎が千利休150回忌に寄進した茶室で、利休の精神を汲み明かりが極度に制限された簡素で緊張感のある設えが施されている。
枡床席は閑隠席の約70年後に建てられたもので、閑隠席の三畳に対して四畳半で作られており、その半畳は踏み込み式の床の間となっている。この正方形の床の間を枡床と呼ぶがこれは表千家六代覚々斎が考案したと伝わっている。天井も閑隠席よりやや高く貴人口を設けるなど明るく伸びやかな設えがされている。

千住博の書院障壁画『滝』は、構想から16年を費やした大作で、2013年の書院落慶に合わせ奉納された。岩絵の具とエアーブラシを使ってほとばしる滝の飛沫が描かれている。鮮やかな群青から真っ白な滝が浮かび上がる姿が壮観である。最初画伯は背景を黒で描いていたそうだが、茶人の黒い着衣と同化してしまうため青に変えたという。普段の茶会のときは別の襖を入れているそうで、全作がはめられた状態で一般公開されるのは初めてだそうだ。


拝観後は雨が本格的に降り出したので門前のカフェで雨やどり。
その後周辺の茶店で名物「大徳寺納豆」を探求。

大徳寺納豆は、宋の禅僧が日本に伝えたもので、あのねばねば納豆とは全く違うもの。常温でも腐らない賞味期限などもない究極の保存食だという。
柔らかく煮た大豆にショウユコウジカビを植えてこうじ豆をつくり,塩水に浸漬(しんし)して3〜4ヵ月発酵させたのち,豆をとり出して乾燥させるという。
固形醤油というか、お粥にいれたり、野菜炒めに使ったり味噌や梅干し替わりに各種食品の味付けに使えるそう。中華に豆鼓という調味料があるがそれと似ている。日本だと甘くない八丁味噌みたいな感じ。

夜は京都市役所前の町屋中華「一之船入」を再訪した。時折激しくなる雨音をききながら、互いの息子が11月に結婚式をあげる友人と延々積もる話を・・


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