mixiユーザー(id:168303)

2016年08月28日19:51

406 view

むきだしの危うさ

強姦致傷罪に問われている高畑裕太は小さいころから問題行動のある子だったらしいがその性癖に関して、母親である高畑淳子に問いただしたマスゴミが批判を受けている。
罪を犯したのは裕太本人であって、立派な成人男子である息子の性癖や性欲に関して親が責任をおわないといけないかという問題。

芸能リポーターが、高畑容疑者のことをひとことで言うと「子どものまま大人になったような人間」だといっていた。つまり感情や欲望をコントロールできない未熟さ、結果を想像できない甘さを包括している。その危うさや無邪気さは俳優業においては希少な個性でもあるけれど、社会的には欠陥人間である。一部から彼は「発達障害」とも言われている。

生まれつきそういう傾向を持つ子どもだったなら、親の育て方が悪かったからと責められる筋合いはないのではないかということ。

親はいったいどう育てればよかったのか。親はどこまで責任があるのか。

子供の思春期は母親にとって暗黒時代。地獄の日々である。その暗黒時代に、子どもを正しく育てたいけれどことごとく上手くいかず、親として自信を失って行く気持ちを吐露した日記がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

親の役割ってなんだろう?
親は世の中のこと、ちゃんと子どもが納得できるように教えてやっているだろうか。

「これはこういうものだから」とか、「みんながやっているから」とか、「世間ではこれが一般的」とか。そういう曖昧な言い方で子どもを説得することが多い。それがいいことだとは思わないが、自分もそういわれて育ってきたし、自分は納得できなくても、「いやそれはそういうものだから」といわれたら、結局「そういうもの」に従うしかなかった。そうすることで自分の存在価値が認められる。逆に従わないと全否定される。そういう経験を積み重ねて人は大人になっていくのだと思っていた。

長男も子どものころは難しい子だった。超ガンコ。春のこんな花冷えの日は長男の幼稚園入園式の日のことを思い出す。
入園式の朝、制服の半ズボンをはかせようとしたら大泣きして拒否。これを履くくらいなら幼稚園に行かないという。幼稚園に行くときはみんなこれを履くんだよ、自分だけ違う格好だと恥ずかしいよ、たのむから・・いろいろ説得してみたがどうしても履かなかった。仕方なく彼だけ人と違う普段の長ズボンをはいて入園式に出た。

子ども時代はそんなもんだ。大人の常識が通じない。「だけど子どもだから仕方ない」「言ってもわからないし」と、こちらもと許すことができた。小学校にあがってからも、なにかと同級生ともめごとを起こしては、担任からおたくのお子さんは「協調性がない」「ほかの生徒と比べて幼稚」と言われた長男だが、大きくなるに従い、揉まれ、丸くなり、今ではごくごく常識的な青年になった。人からは温和な性格とまで言われている。

ところが、次男はいまだに幼児的性格のままだ。いやなものはいや。ただ、むき出しの【我】があるだけ。「みんなが守っているから」とか、そんなことしたら「親に悪い」とか、「人に迷惑をかける」とか、所謂モラル・他者への配慮っていうもの〜人は成長するに従い、世の中はそういう他との関係性において成り立っていて自分は一人で生きているのではないということがわかってきて、その自覚のもと、多少は【我】を抑えていこうとするものだけど〜それが足りない。限りなく幼児に等しい。高校生にもなって、だ。

しかしある意味うらやましい。臆面もなく自分の【我】をむきだしにできるのだから。

人間は成長するもの。

大人になるとは、むきだしの【我】をどんどん奥へ押し込んで、経験とか付き合いとかタテマエとかしがらみのために自分の本質をコーティングしていくものだ。だけどそれは本当に喜ばしいことなのだろうか。

大人になった自分を見た場合、「大人気ない」といわれるのと「分別のある大人だ」と言われるのと、どっちがうれしいだろうか。
大人になるのは仕方ないことではあるけれど、喜ばしいこととも思わない。人は大人になればなるほどピュアな感情を失っていくのだから。

私なんか、そういうタテマエやしがらみのコーティングでぶくぶくに着膨れしてしまって、一体自分は「本当はどうしたかったのだろうか?」思い出せないことがある。
肉布団をつけていると感覚が鈍くなるように、大人になるということは鈍くなるということだ。何層もの分厚い重ね着に阻まれて自分の本質が見えなくなっている。その鈍い感覚で分別臭い経験論をぶってみても、真理を説明できないから、子どもの心に届かないはずなのだ。

彼には贅肉がついていない。精悍な体つき。経験、つきあい、建前、しがらみ、何もない。なんにもコーティングされていない、裸の自我がむき出しになっているのだ。贅肉だらけの大人とは体つきが違う。
ストレートにぐいぐい攻撃してくる。しかしそうやって攻撃しているときはいいのだが、逆に攻撃されたらひとたまりもない。守るすべを身につけていないから。防御するための贅肉をつけてないから。つまりむき出しの裸状態だからいともかんたんに傷つく。

彼は小学校で不登校を経験しているが、不登校になる子は、普通の子らが何の疑問もなくやっていることに執拗に疑問を持つ子が多いような気がする。なんでこうでなければいけないの?なんでみながやっているから自分もやらなければいけないの?なぜ面白くないのに笑っていられるの?なぜ無理をして仲良くしないといけないの?

みんながやっているから。そういうものだから。そういう説明で納得する子なら、なんの疑問ももたず普通に学校に行ってるし勉強しているし仲良くしているだろう。だけど彼らは違う。自分に嘘をつくのがいやだから相手にも嘘のない心を激しく求める。裸でぶつかってくれる人にしか心を開かない。方便、タテマエ、上辺だけのつきあいができないのだ。でも世の中はほとんどがそういうもので成り立っているのだから、彼らはそこに自分の居場所がないと感じる。

私ら凡人にとってそういう子らは厄介な存在であり、彼らと付き合うのはしんどいことだ。鋭い感性で攻撃されるか、こちらの計らいを全否定されることにより、大人の嘘やごまかしの部分をあぶり出されるから。

世の中の付き合いなんて大半はフェイクだ。ホンネの部分なんてどれくらいあるというのだろう。「だからあんたもそーいう世の中に合わせていくしかないんだよ。」そうしないと、「いい大人になってまだそんなこと言うてるの、あほちゃうか(いつまで子ども)?」といわれるのがオチだから。
そういいながら、結局彼を真に納得させられる言葉が見つからない自分は、どうみても彼が将来なりたいと思うような大人じゃないな、と思うのだ。


園子温監督の映画「愛のむきだし」は、いろんな「むきだし」がいっぱいで痛快だった。

感情をむきだしにできる子どもはいいよな、って思う。大人は大人であるがゆえに分別とかタテマエとかしがらみとかいろんなもので自分の本質を覆いかくして生きている。感情をむきだしにするのは、最も「オトナげない」行為なのだから。

だからいつしか子どもはそんな窮屈な、夢も希望もない、大人になんかなりたくね、って思うようになったのだろう。

昔、子どもはみな「早く大人になりたい」って思ったものだ。だって大人になったら自由に好きなことができるもの。
今は、大人にならなくても、なんでも自由に好きなことができる。それに、大人は働かないといけないし、組織に組み込まれて生きていかねばならないし、大人のほうがかえって窮屈で自由がない。

だから大人になんかなりたくない。そう思うのも当然だと思うのだが。

              (2009年 日記より)
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年08月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   

最近の日記