原題「WHIPLASH」はジャズの曲名。
「鞭打ち」の意味らしい。主人公はプロのドラマーを目指している青年だが、鞭打ちはドラマーの職業病なのだそうだ。もちろん彼を指導する教師の想像を絶するしごきの意味でもある。
邦題は「セッション」。
教師と生徒、この二人の壮絶なセッションが映画の主題だが、「絡み合う」なんて優雅なものではなく、生きるか死ぬかのセッション=死闘なのだ。
一日1回、ミニシアターだけでの上映だが、アカデミー助演男優賞受賞のJKシモンズの鬼気迫る演技を観ようと多くの観客がシネ・リーブル梅田へ集まっていた。
ジャズの名門音楽院。未来のチャーリー・パーカーを育てることに心血を注ぐ熱血教師フレッチャー。その彼の目に留まる幸運な1年生ニーマン。しかし彼の指導は最初から常軌を逸している。
映画は冒頭からすごい差別用語の嵐。フレッチャーという男は熱血なのか人格障害なのか。
指導の一環なのかパワハラなのかを診断するときそれが「愛の鞭」だったかどうかは重要だ。指導教育のためについ手が出てしまうことはあるだろう。
愛があれば暴言や暴力も許されるのか。フレッチャーの指導に愛は全く感じられない。しかし・・・
人格に問題はあるが、突出した指導法で必ず生徒を一流ミュージシャンに押し上げる敏腕教師。自身の潜在能力を信じ鍛錬に没頭する野心あふれる生徒。この双方が目的達成のためにタッグを組むとしたらそこに愛は必要だろうか。どれほど愛があっても結果が出せなければすべて無なのである。
アスリートでも同じだが、才能も力もあるのに本番でその力が出せない選手がいる。本番で100%完璧なパフォーマンスができるかどうかが真の8実力。プレッシャーに押し潰されるような人間は一流にはなれない。
その信念から真の一流ミュージシャンを育てることに心血を注ぐフレッチャーだが。
彼のプレッシャーに耐え切れず心身を病み、自殺にまで至る生徒が続出する。
彼の頭にあるのは未来のチャーリー・パーカー(ジャズの歴史に名を残す名演奏者)を育てるという使命感だけである。それ意外の感情はない。愛もなければ情けもない。
ひどい教師だとは思うが、最終的には壁を越えられない自分、プレッシャーに弱い自分に実力がないのである。
「世の中に出回っている言葉で最悪の言葉は、GOOD JOB(よくできました)だ」とフレッチャーは言う。
もしチャーリー・パーカーが共演者にシンバルを投げられてなかったら、あの名曲「バード」はうまれてなかった。あの屈辱が彼を大きく成長させた。
褒めて育てるなんて甘っちょろい指導法は彼の辞書にないだろう。 まだまだ伸びる可能性があっても、よくできましたと言われると、そこで満足し終わってしまう。
「しかしあなたのような指導では、未来のチャーリー・パーカーは心が折れて潰れてしまう」
とニーマンは問いかける。 しかしフレッチャーは自信たっぷりに答える。
「いや、未来のチャーリー・パーカーは決して潰れない。」
一時期就活で「圧迫面接」というのが問題になったが、プレッシャーに負けない強い精神力がなければどれほど才能があってもどこかで潰されてしまう。
技術的に完璧なのは当然、しかもこの壮絶なしごきに耐え、挫折を克服しなければ、チャーリーパーカーのような偉大なミュージシャンには決してなれない。そして未来のチャーリーパーカーになれるチャンスを自ら投げ出すなんて当人にとってもジャズ界にとっても大変な損失。ニーマンはそれがだんだんわかってくる。
ラスト10分間、一歩も譲らないニーマンとフレッチャーの真っ向勝負は迫力満点!
二人の死闘=セッションを固唾をのんで見守る。この映画は助演男優賞だけでなく、録音賞、編集賞など3つものアカデミー賞を獲得しているが、なるほど随所にライブの躍動や迫力が感じられる。
こんな低予算の映画でオスカー3部門受賞は快挙だ。
師弟愛などはみじんもないし最後まで救いのない映画だと思ったが、エンディングで少し光明が見えた。やられるばっかりだったニーマンが失意と絶望を乗り越えて魂の演奏でフレッチャーに立ち向かった瞬間だ。それは師匠に勝ったとか負けたとかではなく自分に勝った瞬間である。
http://session.gaga.ne.jp/
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