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2015年03月28日08:24

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ぼくらはみんな生きている[読書日記516]

題 名:ぼくらはみんな生きている
著 者:坪倉 優介(つぼくら・ゆうすけ)
発 行:幻冬舎
価 格:1400円+税(2001年6月第一刷発行)
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友人が読んでいた本です。
副題は「18歳ですべての記憶を失くした青年の手記」。
著者が18歳(大学一年生)の交通事故で記憶を失くした時から、30歳ころまでの手記をまとめたものです(ちなみに著者は1970年生まれですから、今年2015年は45歳になっています)。

事故の概要が「著者紹介」にあるので引用します。
"1989年6月5日、雨が降る日の夕方、帰宅途中に乗っていたスクーターがトラックに激突。
救急車で大阪府立大学病院救急センターに搬送されるが、そのまま意識不明の重体におちいる。
集中治療室に入って10日後、奇跡的に目覚めたが、両親のことも、友達のことも、そして自分自身のことさえも、何もかも忘れていた"

第一章の「ここはどこ? ぼくはだれ?」は、事故でほとんどの漢字を忘れた著者が「ひらがな」で書いたものが、そのまま載っており、「アルジャーノンに花束を」を彷彿させます。
第一章の文章を引用します。
"いちばん初めの記憶
目のまえにあるものは、はじめて見る物ばかり。なにかが、ぼくをひっぱった。ひっぱられて、しばらくあるく。
すると、おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、ばたんと音がする"(18p)

著者の手記を補足する「母の記憶」が一章から五章に添えられていますが、母親としての切ない感情が行間から伝わります。
"母の記憶1
お風呂にしても、「熱い」「冷たい」がわからない。だから浴槽の水が冷たくても、おかしいと思わずに入ってしまうのです。
あとで見るとぶるぶる震えていて、こっちがびっくりするようなことがありました"(48p)

このあと、第二章('89.9〜)から第四章(〜'92.3)までは、大学生活の状況を交えた著者の回復の様子が、語られています。

第五章「あの事故のことはもう口にださない」で、専攻科(大阪芸術大学卒業後に進むコース)への進学を目指す著者を恩師の井関先生が叱咤する場面があります。
専攻科の面接試験のシーンを引用します。
"「坪倉は専攻科に進んで何をしたいんだ」
「あ、あの、自分で染めた、生地で着物を作ってみたいと思っていまして……(略)
  交通事故にあって病院に行くことにほとんどの時間をとられたために、着物を作れなかったので……」とそこまで話していたら、先生が怒鳴った。
「事故、事故って、事故のことばかりを言い訳にするな!」
  となりにすわっている男の先生たちもビクッとしている"(169p)
最後の"となりにすわっている男の先生たちもビクッとしている"は、井関先生が女性だからです。愛の鞭ですね。

そのあとの著者の内省がいいので、引用します。
"(周囲から)変な目で見られるのが嫌だ嫌だと言いながら、実は自分でそう見られるようにしむけていたのではないか。
ぼくに同情していたのは、ぼく自身ではないのか。なんだか、自分がみじめだ"(170p)

稀有な体験の記録を読むことができました。

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坪倉 優介(つぼくら・ゆうすけ)
1970年12月25日、大阪市に三人兄妹の長男として生まれる。
1989年、大阪芸術大学芸術学部工芸学科染織コースに入学。
同年6月5日、雨が降る日の夕方、帰宅途中に乗っていたスクーターがトラックに激突。救急車で大阪府立大学病院救急センターに搬送されるが、そのまま意識不明の重体におちいる。
集中治療室に入って10日後、奇跡的に目覚めたが、両親のことも、友達のことも、そして自分自身のことさえも、何もかも忘れていた。
1994年4月、大阪芸術大学芸術専攻科工芸専攻に進学。
1996年4月、京都の染工房「夢祐斎」に入社。
染師、奥田祐斎に師事して、古代草木染めに始まり、現代の染色技法をひろく学び、祐斎工房独自の未来形の真珠や宝石の染めを直伝される。
2001年5月、草木染作家としてデビュー。

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