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2015年01月24日14:56

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多和田葉子『言葉と歩く日記』(岩波新書)を読む 

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 図書館で何かの拍子に見つけて借りてきた。
 功成り名を遂げた人のエッセイ風の読み物だし、文字通りの日記で一つ一つの文章が短いから、硬いものを読んだ折や、書くという行為に疲れた折など、箸休めのように読めると思った。

 しかし、読み出したら面白くて止まらなくなった。
 作者は知る人ぞ知るマルチリンガルな小説家で、ドイツに住み、日本語とドイツ語で小説を書いている。それだけに言葉に敏感で、常に自分の使っている言葉をメタレベルから見ながらそれに自己干渉してゆくところがある。
 それがこの書のタイトル、「言葉と歩く」が示唆するものだ。

 私はかつて、日本語について勉強したとき、この人の評論やエッセイ、そして小説からも多くを学んだ。それは、いわゆる、原理的な言語論というよりもより実践的な、彼女自身が突き当たったところから言葉を考えてゆくというものであった。
 この書でも、日々の具体的な出来事を記すなかでそこで出会った言葉が考察されるのだが、それは論じるというより、驚きや発見に満ちたレポートとなっている。

 文字通りの日記で、2013年1月1日から4月15日までの105日間の記述である。
 例えば、1月1日のものでは、日本語の「良いお年を!」に当たるドイツ語は、「Guten Rutsch!」だそうで、これは直訳すれば「良い滑りを!」になるのだが、日本語での「滑る」は試験などの試みに失敗するというあまりいい意味をもった言葉ではないという対比から始まる。
 しかし、これは「うまく新年に滑りこんで下さい」を含意していて、また「 Rutsch」が「旅」をも意味するから、「いい旅を!=ボン・ボワイヤージュ」ともなるといわれると、なるほどと思ってしまう。

 しかし、この書の面白さと深さは、そうした彼我の表現の比較にはとどまらない。一連の文章は、比較言語的な考察にとどまらず、時として一篇の詩であり、時としてウイットの利いた掌編小説であり、また時としては鋭い文明批評でもある。
 そしてそこには、現代にしっかりと向かい合った表現者の思考の軌跡がある。

 それらを可能にしているのは、すでにみたように多言語、多文化から現実を相対化しうる視点を彼女が持ち合わせているということであるが、そればかりではない。その立場自身が日々更新されつつあるのだ。
 それを裏付けるのが、彼女の国境を越えた行き来を伴う諸交流(それは文学者にかぎらず、ミュージシャンやアクターなど実に多方面にわたる)の豊富さであり、さらにはそれを支える彼女自身の実に旺盛な行動力である。
 わずか、3ヶ月半のこの日記の中で、彼女の移動した距離はゆうに何万キロかに相当する。そしてこの移動そのものが日々の発見の内容ですらある。

 もうひとつ、ここで述べられている彼女自身のパフォーマンスについて触れねばならないだろう。それは彼女が、自作を様々な形で朗読しているということである。それらは、単に自作を説明したり、サンプルとして提示するためではない。
 彼女はそれを、例えばドイツ語しか解さない人々のなかであえて日本語で朗読したり、フランス語圏でドイツ語や日本語で朗読したりする。そしてそれに、ミュージシャンのインプロビゼーションやダンサーの身体を駆使したパフォーマンスがオーバーラップしたりする。

 それらはまるで、言葉を特定の「文字」から解き放ち、もっともプリミティヴな音声、もはや意味からも解放された音響、響き、メロディ、リズムに分解するかのようである。文字で書かれた文学を諸表現のなかに据え直し、逆照射してみせるような実験的措置ともいえそうだが、しかしながらそれらは、前衛芸術といった幾分の距離をもったものというより、楽しい催しとして上演されているようだ。会場もかしこまったシアターではなく、珈琲の香が沸き立つ喫茶店で、上機嫌な赤ん坊を乗せたベビーカーと若い母親のすぐ目の前で行われたりする。

 これまで述べたような中身の濃い情報が、一日、1ページ前後の短い文章の連なりのなかから鮮やかに立ち上ってくる。それが楽しくて、読み出したら止まらなかったわけだ。

 文章を書く人、読む人、諸表現に関心のある人、エッセイの真髄に触れたい人、などなどにお勧めの書である。




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