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2014年12月18日17:24

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対談 横尾忠則×磯崎新 

12月16日(火) 15時〜  横尾忠則現代美術館1Fホール

世界的建築家・磯崎新と横尾忠則が横尾忠則現代美術館で対談をするという緊急予告を得て、どうしても行きたくなり、行ってきた。
http://www.ytmoca.jp/event/2014/11/post-61.html

磯崎新は、いま東京のワタリウム美術館で個展「建築外的思考」を開催中だが、
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1408isozaki/index2.html

もともとこの二人の対談はワタリウム美術館で開催される予定だったらしい、が、どうしても二人の都合がつかず、磯崎氏が12月シンポジウムで京都に来るので、そのついでに急遽こちらで催されることとなったそうだ。

◆横尾忠則×磯崎新 対談まとめ

最初に横尾さんが、「実は僕はずっと耳なりがしていましてね。この間もずっと体調崩してて、片方の耳が聞こえないんで、うまく話を聞き取れなかったらごめんなさい」と断った。その言葉に対して磯崎さんも「私もおんなじようなもんです。片方の耳が聞こえません」と応酬。そんな調子でゆるーりと対談が始まった。

話は横尾さんと磯崎氏の60年代NY時代より。
磯崎氏は仕事でNYにいたときに、レオ・キャステリと知り合う。レオ・キャステリといえばアンディ・ウォーホルを世に出した画廊だ。
当時レオ・キャステリにアンディーの描いた絵を見せてもらったが、そのとき「この人はアーティストなのか?」と聞くと「いやグラフィックの人だよ」と言われた。実際ウォーホルは商業デザイナー(イラストレーター)だった。つまりクライアントの注文に応じて広告を作っていた人であり、純粋なアーティストというわけではなかった。そういう商業的なデザイン=グラフィックデザインをアートにまで押し上げたのがPOP ARTなのだが、60年代はまさにポストモダン、アバンギャルド、フラワームーブメント、そしてMOMA(NY近代美術館)の設立、という現代美術の潮流の中にあり、磯崎氏もNYにいてその熱気に触れることとなった。


‘67年ころ、ジョン・ケイジらと前衛音楽活動をしていた作曲家・一柳慧(iいちやなぎ とし)を介して、磯崎氏はジャスパー・ジョーンズと知り合い、夏休み彼の田舎のアトリエに遊びに行った。当時アメリカではボブ・ディランが大流行で、ジャスパー・ジョーンズもボブディランを聞きながら制作をしていて、それを見た一柳が「元前衛がPOPなんかにかぶれちゃって」と嘆いたそうだ。

横尾さんがNYに渡るのはもう少し後で、当時二人が出会うことはなかったが、共通の友人一柳慧を通じて60年代のムーブメントの熱気が伝わってくる話だった。一柳慧はいま開催中の「記憶の遠近術」でも横尾さんと並んで写真に収まっているが、
「彼はネクタイにスーツという、まるで銀行員のような格好をして前衛音楽をやってたからねぇ。」「一柳さんダウンタウンでサイケ柄のネクタイをいっぱい買ってたけど、あれどうしたんだろう?」と、一柳慧の話題で二人はやたら盛り上がっていた。

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後で調べたら一柳慧って人は昔オノヨーコと結婚していたんだね。オノヨーコとジョンレノンの出会いはヨーコが個展を開いていたソーホーの画廊だったけど、オノヨーコもまた60年代にNYで芸術活動をしていた。

横尾さんは一柳慧のところに居候しながら、ジャスパージョーンズやロバート・ラウシェンバーグやトム・ウェッセルマンらと親交を深めた。いずれもMOMAが所蔵するPOPARTの中心アーティストたちばかりだ。

横尾さんがウォーホルに会ったのは、作家のウィルコック氏の紹介らしい。
日本に詳しいウィルコック氏が自分の部屋に横尾さんの作品をたくさん貼っていたのをウォーホルが見て、「これ誰?」と。日本のグラフィックデザイナーだというと会ってみたいと言われたそうだ。
思えばウォーホルも横尾さんも出発点は広告デザインだし、さまざまな有名人をミーハー的視点で描くところ、写真をアレンジした奇抜な色彩配置、など共通点は多い。

磯崎「横尾さんも60年代はただの変な人でしたが、いまやウォーホルか横尾かと言われるくらいの存在感ですからねぇ(笑)」。

横尾「磯崎さんは建築家なのに建築の話は全然しませんね、一柳さんも音楽家なのに音楽の話は全くしないけど(笑)。」

横尾「私は芸術はこうあるべきだ、みたいなのがどうしてもしっくりこないんです」

磯崎「アメリカもやっぱりそんな論議はありましたよね。High ArtとLow Artなんて分類をして。芸術にも格付けする。で、グラフィックや建築はLow Artの部類に入る。でもLowをHighにひっくり返す試みがPOP ARTだった。」

横尾「西洋人はジャンル分けを好む。越境は好まない。だから僕みたいに、どっちにもいける考え方、ちがう領域のものをどっちも含んでいるようなものがなかなか理解してもらえない。君はどっちなんだ?みたいな。でもね、どっちでもいいんですよ僕は。赤いものを黒の絵の具で描いたっていいわけでしょ?」

「日本人のもつファジー曖昧さは西洋にはないものですね。」
「日本人は外来文化を過大評価しすぐに受け入れるが、自国の芸術は軽んじて過小評価する面白い国民性ですよ。」

磯崎「もともと日本には純粋芸術はなかったが、装飾芸術はあった。」

60年代はアート&テクノロジーの時代とか言われた。アートとテクノロジーは対立するものかという命題。アートの中にテクノロジーがあるしテクノロジーの中にアートは存在する。MOMAが登場した意味もそういうところにあると思う。


EXPO‘70万国博覧会で、二人は立場は違うが万博に大きく携わった。

横尾氏はせんい館のプロデュースをした。その展示で彼は芸術家としてどうしても足場を残したままにしたかった。完成されたものをみても制作過程はわからない、自分としてはどうしても完成にいたるまでの制作過程を想像できるようにしたかった。しかし足場が残ったままではどうみても建物がオープンに間に合わなかったようにみえてしまう。せんい館運営側からクレームが来た。横尾さんは最高責任者と話をしたいといった。最高責任者というのは日本を代表する繊維業界の会長(谷口さんっていったかなぁ)。その谷口さんは、いまでいうTPPみたいな会議のまっ最中でアメリカにいた。ニクソンと喧々諤々の交渉を繰り広げていたその人を呼び出すなんて無理だといわれたがそれでも横尾さんは引き下がらない。運営側は仕方なく谷口さんに、30分だけという約束で横尾さんと引き会わせた。横尾さんは谷口さんにむかって自分の芸術観や足場を残す意義を熱く語った。谷口さんは「私は貴方が言ってることは全く理解できない。貴方の芸術もわからない。でも貴方がそうしたいならそうなさい」と言ってくれたとか。

「あのせんい館はすごかったですね。よくあんなわけのわからないもの作ってOKが出たと思いますよ(笑)、でもそういうことができた時代ですよね」と磯崎氏。

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せんい館の隣にはアメリカの象徴のようなペプシコーラ館が建っており、その対峙が印象に残っているとも言っていた。

万博公園に今も残るポストモダン遺産「太陽の塔」。あの太陽の塔だって岡本太郎が作ったというが、岡本太郎はそのデザインをし、スケッチを描いただけで、そのコンセプトを数式に置き換えて設計したのは建築家。材料、基礎、耐久性、安全性、などは土木工学の領域。そして実際に建てるのは大工さん。そういったテクノロジーの総合的な仕事がなければ(単なる造形アート・モニュメントとしてなら)とっくに風化して崩壊しているだろう。

磯崎「芸術というのは紙と筆があれば描けるでしょう?芸術家は自分の作りたいものを、そこらへんの木のきれっぱしを集めてきてでも作れる。赤瀬川原平なんかそうでしょ。
建築というのは自分で勝手に作るわけにはいかない。必ずクライアントがいて注文がなければ建てられないわけです。また建物の目的に応じて機能するものでなくてはならない。しかし万博というイベントは、目的のない建築、理屈のない建築を社会的にやれる初めてのきっかけだった、だからとても面白かったですね。」

横尾「芸術家の中には万博というより反博の立場をとるものが多かった。経済主義への反発です。ぼくももちろん反博精神を持っていたけれども、それよりも純粋にモノを作りたい、作品を発表したいという願望のほうが強かった。だからせんい館のプロデュースを引き受けました。」

磯崎「しかしよく横尾さんにあのお堅い日本の繊維業界が仕事を依頼しましたなぁ。どんな反響がありましたか?」

横尾「さぁ?実はあんまり知らないんです。結局ぼくは万博をみてないんですよ。ちょうど万博の開催中、交通事故でひどいけがをして入院してましたから(笑)。」

アートとキッチュ。それは紙一重である。アートを崇高なもの、キッチュをがらくた、ゴミだと決めつけて区別するのがまず馬鹿げている。

横尾「アートかキッチュかといわれるが、その両方を持っているのが自分。自分は右にも左にもいけるし、白でも黒でもいい。それが横尾流でしょうかね?アメリカ人はどちらかはっきり決めろというでしょう?僕はどちらでもいいんです。僕は芸術の枠におさまらないものを作りたかった。」

磯崎「横尾さんは自分がないんですか?」

横尾「そうです、自分がないのが自分らしさです。」

磯崎「いやぁ、あなたはそうとう個性的だと思いますがね(笑)」


田中一光とのエピソード。

横尾さんが東京に出てきて、田中一光と喫茶店に入ったときのこと。「コーヒー、紅茶、ココア、ジュース、何がいいかと聞かれ、「何でもいいです」と言ったら一光にえらく怒られた。
「君ねぇ、東京でそんな曖昧なことでどうすんの?どちらにするのか、自分はどうしたいか、自己主張が明快でないとちゃんと評価されないよ」と。
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横尾「ぼくはコンセプトとか考えるのがめんどくさいんです。だから相手に考えがあるならその考えに便乗するんです。

磯崎「でもたいがいの貴方の作品は貴方の個性に基づいた作品で、相手の考えを反映したような作品になってませんよね?(笑)」

横尾「いやいや僕はクライアントの考えはちゃんとヒアリングしてます。彼らの要望はすべて盛り込んでやってますよ。だけどその盛り込み方は私の解釈ですから。(表現方法は私の自由に私の裁量でやらせてもらうってこと)」

磯崎「よくそれでクライアントが文句をいいませんね?」

横尾「彼らに考えがないからですよ。考えのある人の依頼ならちゃんとその考えに即したものを作りますよ。考えのないやつらが僕に依頼をしてきてなんじゃこれみたいな作品ができたとしても、考えがないお前らが悪いんだよ、ってことです。」

いい性格だなぁ。でもそれくらいでなくちゃ芸術家なんて務まらないか(笑)
0世渡り上手という見方もまたちがう。横尾さんは先天的に人の懐の中に入るのがうまい人なんだと思う。計ってそうするのではなくごく自然体で相手の懐に入り、評価されるような仕事をしてきたのだ。
開催中の展覧会「篠山紀信、横尾忠則を撮る〜記憶の遠近術」http://www.ytmoca.jp/exhibitions/2014/08/20-1.html

横尾さんがADして一緒に写真をとっている著名人が本当にすごい。三島由紀夫、嵐寛寿郎、高倉健、石原裕次郎、浅丘ルリ子、美輪明宏、柴田錬三郎、深沢七郎、手塚治虫、澁澤龍彦、土方巽、…そして神戸新聞見習い時代の先輩や故郷である西脇の同級生たちとも気さくに並んで写真を撮っている。
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横尾さんの交友関係の広さには本当にー驚くのだけど、もともとこの人の持つ、人懐っこさ、両性具有的な雰囲気、年齢や職業ジェンダーのちがいを意識しないボーダレス精神が、彼の芸術観(枠からはみだす。どのジャンルにも属さない。どちらにも行ける。)と合致する。

宗教やオカルト的な主題の作品も多いが、それに関しても自分がそのときそのときで興味のある素材を取り入れて描いているだけだという。すごくミーハー的。そういうところでもPOP ARTの巨匠といわれるウォーホールとやっぱり似ている。ウォーホール自身には強烈な主義主張はなく、自分が好きなもの描きたいものをミーハー的に描いていた。彼に群がる人たちが超個性的で影響力を持っていただけだ。あとになってからいろんな評論家が彼の芸術にいろいろ解釈を加え定義づけしていっただけで。
今思えばすべてがフェイクだったが、そのフェイクこそがPOP ARTが目指す芸術そのものだから。

後半、磯崎氏のほうからトークのお題が出された。

「私から横尾さんに聞いてみたいことが2つあるんです、温泉パワーとピラミッドパワーについてです。」
横尾さんが帯状疱疹に苦しんで、なにをしても治らなかったのに、草津温泉に浸かって治ったというエピソードについて話がはずむ。磯崎氏も長年帯状疱疹に悩まされていたらしい。

磯崎氏が西脇市岡之山美術館の設計をしたときに、横尾さんからピラミッドを作ってほしいと依頼されたことについて。実際横尾さんの要望にそって、磯崎氏がエジプトのピラミッドと同じ計算式で小さなピラミッドを設計したそう。
横尾さんは、一時ピラミッドパワーに凝っていて、あらゆる関連書を読みあさったそうだ。で、岡之山美術館に作ったピラミッドでもいろんな実験をしたらしい。ピラミッドの中に置いた花と外に置いた花では鮮度が全くちがうとか。
で、「自身がピラミッドの中に入ってみたことは?」と聞かれて「いやぁそれはないです」「自分がミイラになったらいやだもん」と(笑)。

磯崎「西脇市は日本のへそと言われているでしょう?緯度の影響ってあると思うんですよね。いわゆる地球のパワースポットですよ。そんなところにピラミッドを作ったらパワーが倍増するか、あるいはその逆でパワーを相殺しあうのか。興味ありますね。」

そのあと、聴講者の質問で、西脇へそ公園の中にある宇宙科学館を設計した毛綱(もずな)モン太=毛綱毅曠に関する話題となり、それも興味深かった。知らない建築家だし、変わった名前の人だなぁと思い調べてみたら、とてもおもしろい人だった。

安藤忠雄などとともに関西の三奇人といわれた毛綱毅曠は、風水や古代呪術の研究をしたり、現代建築を宇宙の神殿に見立てるなど、いわゆる建築とは遠い分野(非科学的な分野)にたいへん詳しく、またその要素を取り入れた建物を多く設計したそうだ。残念ながら亡くなられたらしい。

                   以上メモより。


そんなこんなで脱線しながらのフリートークは2時間にも及び、スタッフがそろそろお時間もせまってきましたので…というころには外はもう真っ暗。
せっかく神戸まで来たのだから久しぶりにルミナリエでも見て帰ろうかと調べたら、なんと前日(15日)で終わってしまっていた。
ミュージアムショップで「記憶の遠近術」の目録や、磯崎氏の近著なども買ったのでカバンが異常に重かった。

フォト フォト

二人が対談したステージ背景のパネルは、横尾さんが30代のころ西脇へ帰郷したときに、子供の頃よく遊んだ河原に同級生たちが集って撮った写真らしい。のちに彼はこの写真からペインティングの作品を起こしている。

                    
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