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2014年12月07日22:34

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それぞれの関ヶ原

12月に入り一挙に寒さが厳しくなった。日本海側だけでなく、西日本でも徳島などで大雪が降って死者も出ている。
来週は全く意味のないマスターベーション衆院選で、その翌週はまぁこれも日本人にとっては意味のないクリスマス。そして年の瀬か。1年は早いなぁ。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」もあと2回ほどで終わりだが、今日の回は関ヶ原の合戦前夜。
東軍西軍どっちにつくか。1600年日本中の大名が二手に分かれて戦かったといわれているが・・実際は腰抜け・保身まるだしの大名たちがうようよ。なんだか象徴的だなぁ。

息子の長政が家康の東軍に参戦する一方で、隠居の身であるにもかかわらず、九州で兵をあげ、九州制圧を目指す黒田如水(官兵衛)。

マジで天下を狙っていたのだろうか?

家督はすでに長政に譲り、もう守るべきものもないし失うものもない。長年天下人の軍師として生き残り知恵を尽くしてきた官兵衛(如水)だが、このとき生涯で最初で最後の大勝負に出たといわれている。

もちろん家康を西方から支援したとも考えられるが、東軍と西軍が互いにつぶし合って疲弊してくれたら、それに乗じて「漁夫の利」を狙えるチャンスはある。官兵衛はそれに賭けた。でも三成より家康が有利だと最初からわかっていたから、長政を家康のそばに行かせたのだろうし、どっちに転んでも大丈夫なように準備していたのだろう。どこまでも周到な爺さんだ。
結果、家康が圧勝した。

官兵衛の誤算は、関ヶ原の戦いが、あまりに早くかたがついてしまったことだ。
もしこの天下分け目の戦いが長引いていたら、黒田官兵衛が天下をとっていたかもしれない。

「いい夢みさせてもらったぜ〜」・・・ということで官兵衛はこの後息子長政とともに家康に仕えることになる。


今日の大河ドラマは高橋一生演じる井上九郎右衛門のシーンがよかった。

井上九郎右衛門・之房(ゆきふさ)は、播磨の国の姫路出身で、黒田家には官兵衛の父・職隆の代から仕えています。「黒田二十四騎」にひとりで、母里・栗山と並んで「黒田家三羽烏」の1人に数えられる。

 井上九郎右衛門は、当初、職隆の近習を務め、官兵衛の代になると、侍大将として活躍します。官兵衛が、有岡城に幽閉された際は、黒田家を支え、官兵衛救出に奔走します。官兵衛の宿敵ともいえる宇都宮鎮房の山城・城井ノ上城(福岡県)攻めや、朝鮮の役にも参戦。

 井上九郎右衛門がその名をとどろかせたのは、「九州の関ケ原」といわれる官兵衛の九州制圧戦での一戦である。

 1600年(慶長5年)、石田三成の挙兵に伴い、日本全国が豊臣方と徳川方に別れます。三成挙兵時に、黒田家当主の長政は家康の会津遠征軍の一員として上杉討伐へ向かっていた。九州・中津の城は、大殿として官兵衛が守っており、井上九郎右衛門が補佐していた。

 三成の挙兵で、九州は、黒田家や肥後の加藤清正、肥前の寺沢広高らを除き、島津義弘・毛利勝信・立花宗茂・福原長高・小西行長・小早川秀秋(のち徳川方)・鍋島直茂(のち徳川方)など、多くが豊臣方についた。
 官兵衛は九州の豊臣方の緒城を、次々と落としていく。
官兵衛は、関ケ原の戦いが長引く隙をついて九州の兵を率いて天下を狙うという野望を持っていたともいわれている。

 「九州の関ケ原」と語り継がれているのは、「石垣原の戦い」。官兵衛の黒田軍は、豊臣方の大友義統軍と激戦を繰り広げる。
 石垣原の戦いで、井上九郎右衛門が、大友方の参謀格・吉弘統幸を槍合わせの一騎打ちで討ち取る。井上九郎右衛門のこの戦功は、官兵衛の九州の戦いの中では、最も価値の高いもののひとつだった。

 井上九郎右衛門は、この戦功により、1万6000石を与えられる。
職隆・官兵衛・長政・忠之の4代に渡り黒田家に仕えた井上九郎右衛門は、80歳の天寿を全うする。がその子孫たちは、井上家の勢力の増長を恐れた福岡藩2代藩主・忠之によって、黒田家家中から一掃されてしまうという運命をたどる。
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