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2014年06月21日22:16

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国格の形成

人には人格と言うものがあり、およそ義務教育とは知識も教養もないヒトを、人格の備わった人にするものではなかろうか?

ヒトと人は何が違うのかと言うと、ヒトには備わっていない人格と言うものが人には備わっているのであります。

では、人が教育を受けて備えるべき人格とは一体どういうものなのでしょうか?

それは、私的には自分の価値判断で物事を考えることができ、人生で遭遇する様々な問題や出来事等について、自分はどうすべきか、どうしたいか、または、どうあるべきか、どうありたいか、について判断し、結論を出し、決断できることだと思います。

この「決断」ができるかできないかが、人格が形成されているか否かの基準になります。


人が生きていると、常に様々な問題や出来事等に遭遇し、対処を意識的、無意識的に決断して対応しているのですが、遭遇した問題や出来事等への対処にただ一つの正解がいつもあるわけではありません。
Aという方法・対処もあるし、Bという方法・対処もある。 これまでの経験、知識、最近の傾向や他人のアドバイスなどあらゆるツールを総動員しても、AまたはBにまでは絞れるが、どちらかが明らかに
優れているとは言えない場合があるのです。

でも、結論を回避するわけにはいかないと言う場合に、最終的に人は己の全人格を賭して「決断」を迫られるのです。

この「決断」は、決めたらそこで終るというものではありません。 
なぜなら、自分の全人格を賭して決断したことには、「責任」がついてくるのです。
決断した結果に責任が取れないなら、それは決断と言えません。
だから、人格が備わっていなければ決断ができないというのはこう言うことだからです。


で、タイトルの「国格の形成」ですが、これは上で述べた人の人格を、国の場合に当てはめて
「国格」という造語を作りました。

人格と同様に国格がその国に備わっていなければ、「決断」と言うものができないと、私は思うのです。
では、国格を形成するにはどうしたらいいのか?
国に義務教育を受けさせるといっても観念的で意味を持ちません。

私は、国とは何かを考える必要があると思います。
日本国という国とは何か?
それは、北方領土や尖閣諸島や竹島などといった国土ではなく、
国会議事堂や霞が関で働いている人たちでもありません。

私は、国とは国民の総和であると思っています。

よく政治や経済を批判するときに、「この国は」とか「日本は」を主語に批判する人がいますが、
そんな人に聞きたいのは、「この国」や「日本」て誰ですか?ということです。

もうお分かりいただけると思いますが、「この国」や「日本」は「この国のどこかの誰か」ではなくて「私」であり「あなた」なのです。

間違っているこの国を正したいと思うなら、「私」や「あなた」を正していかないとならないのです。


いま「憲法」が揺れているように見受けられます。
この問題は国が遭遇する重大な問題・出来事等です。
そこでは、国としての「決断」が求められます。

これは国として決めるべきことですから、「全国格」を賭して「決断」すべき問題でしょう。
決断に関与しない国民は「決断」結果に批判することは許されず、「決断」に関与した国民は、その結果に責任を持たねばなりません。

誰かが勝手に決めたことだから知らないという人が、もし大半を占めるような現実があるのなら、
「この国」、「日本国」は、残念ながら、重大なことを「決断」できるだけの「国格」が形成されていないということです。

これは、取りも直さず「この国」、「日本国」という総和の一部を形成する「私」や「あなた」にこの問題について「決断」でrきるだけの人格が備わっていないということを意味します。


だから、私はそんな中にあって、自己の望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することが出来るように、己の人格形成に研鑽していきたいと願っているのです。



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