mixiユーザー(id:24016198)

2014年05月17日14:09

669 view

善因善果、悪因悪果と、善因悪果、悪因善果

「お前さん、挿し絵を描いてくれんのか」「おいらはやらんよ」「お前さんがかいてくれるなら、もう文句をつけんが」「とにかく、おいらはさし絵はもうやめたんだ」

文化十年、江戸・飯田橋。
『椿説弓張月』で当代一の読本戯作者となった曲亭馬琴が、弓張月の挿絵でもコンビを組んだ葛飾北斎に、次の作品の構想を語る。
読本(よみほん)では文章と同じくらいのウェートを占める挿し絵を、なぜか今回ばかりは断られても、腹案を語り聞かせる際に北斎がその場で何気なく筆を走らせた数枚の画は、その度に馬琴の狂おしいイマジネーションの源泉となった。

そうして延々30年近くに渡って、『南総里見八犬伝』は書き続けられ、刷られ、読み続けられることになる。

自宅で細々と続けている読書会の今回のテーマ、山田風太郎の小説『八犬伝』は、世界に冠たる伝奇ロマンが紡ぎ出された文化文政期の江戸のあばら屋の日常と、呪いと義と戦いが血の色の花を咲かせる室町の乱世とを交互に描き出す。
この本を推薦してくれた女性は、小学5年生でこれを読んで理解し(!)、クラスメイトと離れるようにして、独り別の海に航海に出たという。
また別の常連女性はやはり6年生の時に『水滸伝』を読み、その方面へ人生の舵を切った。
本読みという蛮族は、こうして幼い頃からあたかも水を飲むようにして毒を飲み続け、長じてその内部に奇妙な小昏い世界を抱え込むに至るのだ 。
誰がそれ を笑えようか。


滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は、文化11(1814)年から天保13(1842)年にかけて28年を費やして書かれた、98巻106冊におよぶ長編伝奇小説だ。
ほぼ原文といえるものは、現在は新潮と岩波で読むことができるし、現代語訳なら例外なくついでにダイジェスト化され、いろいろなヴァージョンで出回っている。
もちろん漫画もある。(これがなかなかの出来だそうだ。)
もしこの文を読んで、『南総里見八犬伝』そのものに興味を持たれたら、まずは四の五の言わずにまさにこれ、山田風太郎が1983年に書いた『八犬伝』を読むことを強くお奨めする。


『南総里見八犬伝』の物語の発端はこうだ。

室町末期、房総半島南部の安房の地に、戦に敗れた武将、里見義実が流れ着いて来る。
奸臣の手で国を乗っ取られた安房・神余家の家臣金椀(かなまり)八郎は、里見義実の人物を見込んで彼を総大将に迎え奸臣を討つことに成功するが、国を傾けた神余の側室たまづさは、処刑に臨んで里見に呪いをかける。
「殺さば殺せ。児孫(うまご)まで畜生道に導きて、この世からなる煩悩の犬となさん」

妖婦たまづさの呪いが、安房の主となった里見の身に形となって現れるのはそれから16年後。
飢饉が安房を襲った年、かつて援助した隣国安西から攻められ、いよいよ兵糧もつきて落城寸前となった際、娘伏姫の可愛がる犬・八房(やつふさ)に、戯れに「安西の首を取ってこい。さすれば伏姫をお前の妻にやろう」と言ったところ、八房はびょうびょうと吠えた後たちまち駆け出し、やがて安西の血まみれの生首を咥えて戻り、主人の前にごろんと転がした。

あれは捨て鉢の冗談だったのだという里見に、伏姫は、一国の主とあろうものが言葉を違えてはなりませぬ、私は八房の妻になりましょうとて、八房にうちまたがり、城を出てゆく。
深い山の洞窟で八房を従え、ひたすら経を読む日々を過ごす伏姫だが、ある日懐妊の兆候に気がつく。
畜生八房を 決して近づけることのなかった伏姫は、様子を見に来た父里見義実の前で身の潔白を証す。

――「ごらんなさいませ、父上さま。伏姫は潔白でございます!」
白衣と帯はそのままに、伏せ姫は片ひざだけをたて、短刀を左腹につきたてると、いっきに右へひいた。
その刹那、赤い世界にただひとつ純白であった姿が、燃える朱色に変わった。人々の眼には、そこにその色の大きな牡丹が咲いたように見えた。
血の風がそこから吹いてきた。――

金椀八郎の息子であり、伏姫の許嫁であった金椀大輔は、八房を絶命せしめ、出家して名を「ゝ大(ちゅだい)」と改め、伏姫自害の際に姫の身体から宙空に飛び出した八つの珠を探す長い旅に出る・・・・。


ここから先は、ご想像のとおり、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌のそれぞれの珠を持つ人物が、水滸伝よろしく物語の中で次第次第に現れ集り、やがて一堂に会して里見家の敵を討ち因果を解き放つという、一大スペクタクル絵巻となる。
「八犬伝」の名を知らぬ者はいないが、「八犬伝」を詳しく知っている人は、さていかほどいるだろうか。


山田風太郎は、八犬伝の物語と並行して、これを書き続けた戯作者(げさくしゃ)曲亭馬琴の日常を描き出す。
馬琴は下級武士の出身だが、父親の死後、家は没落し、馬琴はあちこちへの奉公と出奔、放蕩を繰り返しながら、物書きとして起つことを決意する。
山東京伝、蔦屋重三郎などといった作家や版元のもとで修行を積み、年上の女房をもらい、徐々に作家としての地位を確立して、ついに山東京伝の筆禍事件などを契機に、京伝に代わる読本の第一人者となった。

しかし、彼の重厚な武士然とした態度、妻や娘の日用品の買い物にも目を光らせる細かい性格、外出嫌いの社交下手、滑稽なまでの完全主義、朝から夜の深けるまで机に向かい、食事も書斎で独り摂るといった実生活からは、傍目に観ても幸福の匂いはしてこない。
印税の概念のなかったこの時代、読本がいくら売れようが作者の懐には最初の原稿料しか入ってこず、武家に相応しいようにと過剰なまでに厳しく仕込んだ頼みの一人息子は、松前藩の御用医師になったはいいが、脆弱で仕事らしい仕事ができぬまま若くして死の床に入る。
妻は妻で、神田の家持ちの娘だったあたしがどうしてこんな暮らしを、と始終文句ばかり。
下女の不品行には年中悩まされ、隣家との確執も長年続いている。
それをまた、毎日毎日、馬琴は細大漏らさず、四角四面に日記にしたためてゆくのだ。

八犬伝に熱狂する江戸庶民。
それを描く戯作者の、うんざりするような日常。

最初は、八犬伝のめくるめく物語にのめりこむように読んでいたはずが、読み終わる頃には、この馬琴の実の世界が、虚構を圧倒して立ち上がってくる。
物語の中ほどに出てくる、鶴屋南北と北斎を交えた、虚と実にまつわる論議が白眉だ。
この小説の大きな転換点になっていたような気がする。
馬琴は、尾上菊五郎に招待された北斎に誘われて、中村座でかかっている鶴屋南北の新作『東海道四谷怪談』を観た帰り、木戸番の案内で舞台裏を見物する。(彼らはこの時の木戸番・和泉屋次郎吉が、ねずみ小僧次郎吉であったことをあとで知る。)

「まったくあの怪談はこわいねえ。曲亭さんの怪談は面白いが、南北さんの怪談はほんとうにこわい」
「ありがとうございます。もしあたしの怪談がほんとうにこわいなら、そりゃさっき申しましたように、あれが実の世界をかいたものだからでございましょう。あたしは、この浮世は善因悪果、悪因善果の、まるでツジツマの合わない、怪談だらけの世の中だ、と思っておりますんで。ーー」
馬琴はうめくようにいった。
「ツジツマの合わん浮世だからこそ、ツジツマの合う世界を見せてやるのだ」
「しかし、それは無意味な努力ではございますまいか?」
「お前さんの世界は有害だ」
「あたしは、有害のほうが無意味より、まだ意味があるのじゃないかとかんがえているんで」

馬琴の書いた八犬伝は、物語の後半になればなるほど、あらゆる因果に応報がなされ、善因善果、悪因悪果の、すべての辻褄が合うように描かれる。
鶴屋南北は、それとは真っ向反対の世界を構築して、これも江戸で大当たりをとるのだから、文化文政期の江戸の文化レベルの高さは恐ろしいほどだ。
このふたつの世界観がともにうねる時代、しかし、時代の大転換は、確実に忍び寄ってきていた。
武士の価値観はどんどん崩れ、『南総里見八犬伝』完結の25年後にはついに大政奉還が断行される。
時代の流れがそうあった時に、必死で武士に返り咲こうとした馬琴こと瀧澤興邦、その厳しい武士道的世界観を読本の中で滔々と語り続けた曲亭馬琴は、時代に逆らおうとして無意味で滑稽だろうか?

山田風太郎は書く。
「八犬伝」前半のあたりは、正常の人がけんめいに異常な物語をかこうとしているかに思われるが、後半は、異常の人がけんめいに正常な物語をかこうとしているかのようだ、と。

八犬伝が面白いのは、確かに風太郎の云う「異常な物語」の部分で、後半の「正常な物語」は実際かなり退屈で、しかもそこがとてつもなく長々しいらしい。
現代語訳も、風太郎の小説も、後半部分は大いにはしょられているから、読者というのは現金なものだ。
だが、因果応報の発端から、伏姫自害、そして八つの珠の持ち主がしだいに邂逅してゆく波瀾万丈偶然必然また偶然の大スペクタクルは、時間を忘れて読み耽るほど面白い。
二人の猛者が利根川を臨む芳流閣の屋根から真っ逆さまに落ちる決闘の場面、女田楽師による皆殺し復讐譚、荒芽山での幽霊怪異事件、狐の恩返し、繰り返し登場しては犬士たちを惑わす稀代の毒婦などなど、次から次へと繰り出されるエピソードは、どこをとっても歌舞伎の名場面になりそうなものばかり。

しかし私は、山田風太郎を読んだ後、人物関係整理のために解説本に目を通し、高田衛の研究書に唸り、白井喬二の手による2000頁ほどの現代語訳を読み、再度風太郎を読み直して初めて気がついたが、私が特に強烈に印象づけられた細かいシーンの多く、例えば、要所に何度も登場する神々しい名馬青海波、荒芽山での死んだはずの若い夫婦の婚礼など、山田風太郎が新たに書き足した要素であったようなのだ。
訝しく思って、岩波文庫の原典を借出してきて確認してみても、少なくとも風太郎が書いたのと同じ場面の原典には、そのような記述は見られなかった。
これらのいくつかは、確実に、風太郎のイマジネーションが生んだ場面だったのだ!
ということは、私は八犬伝にのめりこんだと同時に、同じく八犬伝に魅せられた山田風太郎の、彼のイメージする八犬伝の世界にもまた、魅了されたということになる。
さらに風太郎は、こちらに八犬伝の魅力を伝えてくれる一方で、戯作者馬琴が生きた江戸末期の社会についても、多くのことを教えてくれた。
私はあの時代の一人の読本読者になりきって八犬伝の物語に身を浸し、つまり『八犬伝』を読みながら、幕末の江戸の空気を吸っていたわけだ。
なんという幸福な読者!
そして、なんて大した作家なのだろう!


この日我が家に集まってくれた本読み仲間は、それぞれのやり方で、この本を読んできてくれたようだ。
作者曲亭馬琴の日常に徹底的につき合ってきてくれた人、念願のリタイア生活で、年間1500冊の詳細な読書計画を立てたというのに、こんな本を読んでしまっては山田風太郎を手当り次第に読みたくなってしまって計画が狂うではないかと異議を唱える人、山田風太郎の作風に興味を持って、他の本を読んできた人、房総半島の旅に出かけ、館山の八犬伝資料館の図録を買い求めてきた人、八人も犬士がいて到底憶えられないから、五犬伝くらいにしといて欲しかったと悔しがる人・・・。

この本を推薦してくれた人は、これを機に朝日文庫の表紙を飾った切り絵作家・宮田雅之の作品集を手に入れて、みんなに見せてくれた。
そうそう、この切り絵だ!
私も『八犬伝』はこれしかないと思い定め、朝日文庫版はすでに絶版であったので、古本を探して手に入れた。
幼い頃TVで観た辻村ジュサブローの人形劇といい、宮田雅之の切り絵といい、八犬伝の世界を表すに、これ以上のものがあるだろうか。

グリーンピースのおにぎりを頬張り、春キャベツと生桜えびのマカロニや、相棒が手作りしたなめろうをツマミに、千葉から取り寄せた原酒「八犬伝」を味わいながら、八人の犬士の物語、そして馬琴の涙ぐましい実生活のこと、飯田橋から神田、四谷と居を移した馬琴は元祖中央線人だったのか?など、話はいつまでも尽きなかった。

唯一心残りだったのが、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の珠を持つ八人の犬士たちにもう一つ共通している、身体に牡丹の花に似た痣を持っていることにちなんで、八輪の牡丹の切り花を用意しようと思ったが、そこは哀しい日本国の足並み揃えた一大イベント、開催日が母の日の直前であったがために、今が盛りの牡丹の花をどうしても手配できなかったことだ。
なので、この2週間前にとある場所でたまたま見つけた牡丹の花の写真を、悔し紛れに掲示することにしよう。


嗚呼、愉快なり八犬伝。
偉大なり曲亭馬琴、そして山田風太郎よ。


7 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する