神田沙也加さんが急死、滞在先のホテルから転落
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まずは故人の冥福を心よりお祈りする。
昨年の三浦春馬さんなどもそうだが、こういった事件は反出生主義的な要素を肯定も否定もする事案であろう。
才能のある方が(おそらく)自殺されると「なぜ」「もったいない」という感想はでやすい。
どれだけ才能や金銭的なこと、社会的名声に恵まれていてもこの世が苦しくて自殺してしまう方は少なからず存在する。これはきれいごとではなくて明確な事実だ。このあたりは反出生主義者が言うとおりだろう。
一方で上述の方に比べれば才能にも名声にも金銭的にも恵まれていない私(笑)は自殺などせずに自然と死ぬまでしぶとく生きる所存である(ストレス耐性偏差値80以上の異常値)。
逆に言えば、幸せに生き延びるためには「才能」「名声」「金銭」といった要素は必要十分条件ではないという立証でもある。
楽天主義というのは「性格」ではなくて「考え方」だ。「考え方」だから後天的に身に着けることができる。
良く用いる事例だが「未開地の靴の販売人」の話がある。未開地に市場調査に言った2名が現地人が誰も靴を履いてないのを確認した。その「全く同じ事実」を見ながら、2人とも論理的な結論を出すが、その結論内容が真逆になるというものだ。
・前提「誰も靴を履いてない」
A結論「ここでは靴は売れない。靴を履く文化がないからだ」
B結論「ここでは靴が売れる。誰も靴を持ってないからだ」
AもBも論理的(前提があり結論への展開に無理がない)でありながら結論が真逆になるというのがとてもおもしろい。ともに間違いではないが、「幸せになる考え方」はBだ。
現地に市場調査に行けるだけの「能力」「経済力」もむろん必要なのだが、根本的に必要なのは「この世のとらえ方」ということだ。
私が5kgの荷物を持ってもつぶれないが、ボプサップでも100トンの荷物を持つことはできない。幸せであることとは「能力」に影響はされるが決定づけられるものではない。
「モビルスーツの性能の違いが、戦力の決定的差ではないということを・・・教えてやる!」ということだ。
苦境を迎えた時に、自分の手持ちのカードや戦力で「どう戦ってやろうか」と考える「ふてぶてしさ」。
敵の猛攻にあっても最善を尽くしてガードを固め削られながら爛々とカウンターの機会をうかがう「したたかさ」。
諦めない自分に酔える「ナルシスト」っぷり(笑)。
まだ終わってねーぞ。
「諦めない心」を支えるのは楽天的なもののとらえ方に尽きる。なお、楽天的というのは単なる現実逃避でとは異なる。現実を見据えたうえで、それでもなお最後まであがいてやろう、最善を尽くそうという「あきらめの悪さ」が奇跡や逆転を生む(ことがある)。奇跡や逆転が起きなかったら「それをあきらめ受け入れ」た上で、それでもなお「自分が幸せになること」をあきらめないし、あきらめてはならない。
こういう考え方をする「私」が存在する時点で反出生主義には異を唱えたいと思う。なお、私みたいなのが出生する確率は「分の悪い賭け」であり、「不幸を感じる客体を存在させ始めるべきではない」「分の悪い賭けに他人(生まれてくる子)を巻き込むのは道徳的ではない」というのが反出生主義なわけだが、その意見に対しては、私としては多少の自己中心主義を発生させ「知ったことか」である。
我が子が人生を切り開けることを信じるという「信仰」に近しいのやもしれない。
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