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2026年08月09日05:52

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漫画のキャラクターについての、とりとめない記憶

自分の読みの甘さというものを、昨日の日記のコミックス版『風の谷のナウシカ』のことでも、あらためて痛感した。
昔読んだときには分かったつもりでいたのに、ずっと後になってから、ようやくその核心が見えてくる。そういうことがある。

たとえば萩尾望都の短編『マリーン』。
時間的な遡行の仕掛けそのものは、読んだ当時にも理解できた。
けれど、そこに描かれていた「愛情」の実際がどういうものだったのかは、ずっと後にならないと分からなかった。
たぶん、萩尾望都がその作品を書いた年齢の倍ほどの歳になって、ようやく少し腑に落ちたのだと思う。
こういうとき、天才的な創作者と凡才の読者との差というものを、しみじみ感じる。

それで思い出すのが、『めぞん一刻』の音無響子である。
あのヒロインを、完全無欠のマドンナとして描くほうが、たぶんずっと簡単だったはずだ。
けれど高橋留美子は、あえてあんなふうに、面倒くさく、揺れがあり、時に読者を苛立たせるような人物として描いた。
そのほうが物語にリアリティと深さが出ることを、若い時点で計算し、設計していたのだとしたら、やはり驚くべき才能だと思う。

『めぞん一刻』と比べると、同時期のラブコメである『気まぐれオレンジロード』は、設定の骨格こそ少し似ていても、人間の造形という点ではやはり浅く見えてしまう。
しかもあちらには、主人公側にエスパーというSF的属性まで付いている。その部分は私の大好物だった。
そういう気楽に楽しめる面白さは確かにあった。が、人物の陰影という意味では、『めぞん一刻』のほうがずっと厚い。

高橋留美子の作品で言えば、『犬夜叉』では、主人公の犬夜叉とかごめそのものには、私は『めぞん』ほどの深みをあまり感じなかった。
むしろ、あの作品の陰影や重みは、桔梗や弥勒のほうに強くかぶさっていたように思う。

それにしても、『めぞん一刻』の終わり方は見事だった。
三鷹のようなライバルにも、五代のガールフレンドだった七尾こずえにも、それぞれに幸福な着地点が用意されていた。おっと朱美さんにもね。
あれはまさに、大円満のエンドロールという感じがする。
主要人物だけが幸せになるのではなく、周辺の人物にもそれぞれの人生の出口が与えられているところに、作品の懐の深さがある。

その頃のラブコメを思い返すと、『気まぐれオレンジロード』では檜山ひかるが、いわゆる負けヒロインの位置にいた。
『みゆき』で言えば鹿島みゆきがその役回りに近い。
ただ、鹿島みゆきには、若松真人の先輩のプロサッカー選手という、ひとまずの救いが用意されていた。
それに比べると、ひかるのほうはどうだったか、と少し気になってしまう。

さらに恋の行方ということで言えば、『こち亀』の両津に本気で惚れていたマリアの恋は、最終回までにちゃんと着地したのだろうか、どたばたでうやむやになってしまったのでは?
こういう脇の恋愛の後始末まで気になってしまうのは、年を取ったせいなのかもしれない。


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