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2026年05月07日06:25

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認知の文法

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まずこの画像は、楽天AIに出力してもらった「現代人が思う紫の上」と、「平安人が思い描いていたであろう紫の上」である。
どちらにもノーブルな、高貴さの気配はあるのだが……やはりかなり違う。
現代版は写実寄りで、平安版は記号的にみえる。
右のほうなど、時代劇的な“奥方顔”に見える。私には映画『椿三十郎』に出てくる城代家老の奥方(演:入江たか子)に見えてしまった。
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そして、私自身の紫の上のイメージはこちら。
大和和紀『あさきゆめみし』の、いわば正ヒロインとしての紫の上である。

見比べて思うのは、人物像の違いは時代に依存するだろうと。だが、考えるとそれ以上に大きいのは音楽の隔たりではないかという気がする。

同じ「管弦」と言っても、平安の管弦の調べと、現代の管弦楽とでは、かなり違う。
比較的調和のとれたモーツァルトでさえ、平安人には「かまびすし、わろし」と聞こえるかもしれない。
ましてロックなど聴かせたら、どんな反応が返ってくるだろう。

映像も同じである。
平安人にスクリーンに映った映画を見せても、慣れるまでは、そもそも何が投影されているのか理解できないかもしれない。
たとえば映画『源氏物語 千年の謎』を見せたとしても、生田斗真や真木よう子といった俳優が、物語中の誰を演じているのか、源氏物語を知っている貴族であっても、すぐには対応づけられないのではないか。

これは、現代の小中学生に、アニメでだけ知っている『ワンピース』のコミックスを見せた場合にも少し似ている気がする。
漫画のコマ割りや視線誘導といった「読む文法」をまだ十分に身につけていないと、読解には時間と熟練が要る。
その途中で、何割かは脱落するだろう。

結局のところ、人が何か――人物であれ、音楽であれ、映像であれ――を認知するには、その世界、その時代や文化に固有の「認知の文法」を、まずある程度は身につけていなければならないのかもしれない。


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