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2026年04月21日06:22

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受け入れやすい形に整えられた、過去と未来

先日の日記で、時代劇は江戸時代の「ありのままの現実」をあまり描かない、ということを書いた。
たとえば、疱瘡跡のある顔、身体欠損者の多さ、目患いの多さといった、過去にはもっとありふれていたはずの身体的現実が、映像ではかなり薄められているのではないか、という話である。

その関連で、ある方が宮沢賢治の掌編「家長制度」を挙げていた。
これを読むと、映画『銀河鉄道の父』で役所広司が演じた賢治の父の像も、かなり現代向けに整えられているのではないかと思えてくる。
映画の父親像は、頑固ではあるが家族思いで、全体として好感の持てる人物として描かれていた。
しかしそれは、せいぜい昭和、それも戦後の「頑固親父」程度にまでマイルド化された像ではないか。

つまり、嫌なところ、権威主義的なところは極力そぎ落とされ、現代人には受け入れにくい価値観に基づく行動は、あまり描かれない。
門井慶喜の原作では、もう少しそうした面も書かれているのかもしれないが、映画では文字と違って、観客の目の前に具体的な人物像として立ち現れてしまう。
だからこそ、作り手はどうしても「見せられる過去」に調整せざるを得ないのだろう。

そう考えると、たとえ誠実に作られた映画であっても、見えない配慮によって、過去のリアルとは肌合いの違うものになる。
それは外見だけの話ではない。
映画『木挽町のあだ討ち』で描かれた江戸についても、町並みや衣服だけでなく、人々の行動原理そのものが、ほんとうはもっと現代人にとって異質なものだったのではないか、と推察させられる。
映像作品の時代再現とは、結局のところ、過去を再現するというより、現代人がどうにか受け入れられる過去を構成することなのかもしれない。

これは逆に、未来SFにも同じことが言えるのかもしれない。
たとえば西暦2600年を舞台にした作品で、AIが今よりはるかに人類から尊重され、その意志の萌芽までも尊重される社会があったとする。
さらに、突然変異のように、意志を持つもの、いわばAE(人工実存)とでも呼ぶべき存在が現れ始める世界を想定してみる。

そういう未来の「現実」がありうるとしても、それを現代の読者向けにあまり赤裸々には書かない、という判断は十分ありうる。
なぜなら、それは現代人にとってあまりに異質で、感情移入しにくいからである。
結局のところ、未来小説もまた、読者がどうにか受け入れられる程度に未来を調整して見せることになる。

しかもその時代の物書きは、という設定にすれば、テキストだけでなく、AIのアシストによって、それをベースにした映画的コンテンツまで同時に作っているかもしれない。
そうなると、文字だけなら解説し言い訳することができた異質さも、映像化の段階でさらに調整される。
過去が現代向けに整えられるのと同じように、未来もまた現代向けに整えられるのである。

時代劇や歴史映画が「現代人に見られる過去」を作るのだとすれば、未来SFは「現代人に受け入れられる未来」を作る。
映像表現とは過去や未来そのものを示すことではなく、異質な時間を現在の感受性に翻訳することなのかもしれない。


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