昔のドラマや時代劇の再放送を見ていると、セリフの一部だけ不自然に音が切れていることがある。たぶんそこには、身体や精神の障害について、昔は普通に使われていたが、今では放送で避けられる言葉が入っていたのだろう。映画ではそのまま残っている場合もある。
筒井康隆の一時期の「断筆宣言」ではないが、テレビの映画劇場などでこういう扱いを見ると、やはり「言葉狩り」に見えてしまう。しかも「片手落ち」のように、障害とは語源的に無関係な言葉にまでそれが及ぶことがある。少なくとも私には、当事者からの異議というより、第三者の過剰な忖度や先回りした自主規制として進んでいるように見える。
とくに気になるのは時代劇である。そこに描かれる世界は、しばしばその時代の実情とはかなり違う。たとえば、疱瘡の痕のある「あばた面」の人がほとんどいない。腕や足を失った人が大通りを歩いていない。未舗装の道の土埃で目を病んだ人も見当たらない。こうなると、映像は歴史の再現というより、かなり清潔に整えられたファンタジーになってしまう。これは映像だけでなく、小説でも同じことが起きているのではないか。
そこからさらに連想したのが、中国のSF作家の話である。自国版では政治に関する部分を穏健に書くか、あるいは書かずにおき、海外向けの翻訳版ではその部分を補って出す、という記事を読んだ。検閲や自己規制を避けるための工夫なのだろうし、それでも危うさは残るだろう。だが少なくとも、表現に対する誠実さを保とうとする態度としては評価できる。とはいえ、そうしなければならない状況そのものは、やはり病的に見える。
そういえば、昔、電車の戸袋に手を挟まれないようにという注意書きで、「指ツメに御注意」という表現があった。これを見て、任侠映画的な連想をする人がどれだけいるだろうか。しかも、そうした責任の取り方自体、実際には映画や伝説の中で誇張されたイメージかもしれない。
ファンタジーは、歴史とは無関係な夢想世界であってもかまわない。だが一方で、赤裸々な過去の現実をきちんと見据えたうえで夢想する、という厳しさも必要なのではないかと思う。
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