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2021年02月28日21:57

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差別と区別の区分

■森発言の問題が理解できない男たち「正直、あれくらいで?」
(日刊SPA! - 02月28日 09:22)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=6428289

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ざっくりとネット上にて集めた意見

【A 辞書的な意味】
区別=あるものと他の者との違いを認めて両者を明確に分けること

差別=�,△覺霆爐亡陲鼎い萄垢鬚弔韻洞菠未垢襪海函0靴い飽磴い鬚弔韻襪海函�また、その違い。 �∧亳�や先入観をもとに不利益、不平等な扱いをすること。また、その扱い。

要するに用途用法に従い物事を分けるのが区別。そこに「扱い、偏見、先入観」が追加されたもの差別

分けるだけなら区別。そこに利益不利益が生じると差別

【B ネット上の考えの1つ】
区別=単にモノを分別するだけで差を一切付けないこと
差別=区別したものに多少の扱いの差をつけたもの

【C あるブロガーの意見】
何かの本で『区別と差別には差はない』と書いていました。同じものだと。何かをAとBに分けるのが区別ですが、分けた時点で名称や扱いに差が生じます。ゆえに区別=差別です。 その「区別」で不利益を被る人が「差別」だと騒ぎ立てているだけです。

【D 知恵袋あたりの回答】
違いを受け入れるために分けることが区別。違いを受け入れないために分けることを差別。同じようなもの。差別は区別の一種であり、差をつけることを強調した表現。「見解の差」か「優劣の差」か。

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色々見てみたが。4案とも共通項と独自項があるようだ。
AとBでは差をつけた区別が差別である、「区別+扱いの差=差別」という数式が透けて見える。また、Aでは特に差別については2つの意味が出ており、いわゆる差別問題で語られる意味(偏見・先入観)が�△能劼戮蕕譴討い�(以下、差別�△箸垢襦法�

CとDは基本的に差別と区別に違いはないのが前提。で、Cではその区別で不利益を被る人が糾弾するモノを特に差別だとしている。Dは区別の中でも特に差がつくことを強調したものという立ち位置か。

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さて、私見を述べる。区別全般と差別�,砲和腓�な差はない。ともに「物事を分けて取り扱うこと」だ。ゆえに、C,Dのような見解が出るのも当然だろう。

一方、区別全般と差別�△砲老觜渋腓�な差があると考える。

区別と差別�△琉磴い蓮屐紛菠未垢襦僕�由と区別する内容の因果関係の合理的客観性、妥当性」で見分ける。

とりあえず、「差別ではなく区別だ」シリーズを上げていこう。

たとえば犯罪者に犯罪相応の刑罰を与えるのは「区別」であって「差別」ではない。他人の権利を害したという前提があるものは、罰という不利益を受けるのが相応であるという理屈だ。(相応の刑罰という量刑の部分について大まかには法律で一定の基準が定められており、個別の事情は上々の酌量などで修正される)。

「女性ではなく、男性が重量物を運ぶ」というのも「差別」ではなく「区別」だ。「世間一般的に男性の方が筋力に優れる」という前提がある。
「美女に接客されるほうが男性客は嬉しい場合が多い」というのは「イケメンに接客されるほうが女性客は嬉しい場合が多い」というのも単なる統計的な事実であって差別とは言えまい。内心の自由やそれを言い当てる事実まで「差別だから改めろ」としてどうこうしようというのは「むしろそれこそが差別的ななにかだ」と言わざる得ない。

ミスターポテトヘッドというキャラクターの「ミスターを外す」とか、履歴書から性別記載欄をなくすとか、学校であだ名を禁止するとか。そんなことは「問題解決の本質ではない」のだ。

お母さん食堂ば別に女性差別ではない。これが差別になるには「お母さんが必ず飯を作るべき食堂」などとなってなければなるまい。私も差別には無論反対だ。だが、自分が気に入らないものに表現されてもない意味を勝手に継ぎ足し「差別」という扱いにして批判する手法には断固戦いたい。

年間200安打や対局29連勝を達成するなど優れた仕事をした人物が結果的に相応に高い報酬を得るのも「差別」ではなく「区別」だ。「相応」の部分については別の議論になるが、少なくとも同等条件で20安打しかできなかった選手より多くの報酬を得るのは妥当だろう。数値という客観的指標(厳密には客観敵っぽいだけで客観的ではないんだが)があるので納得性が高いわけだ。

区別=扱いの差があることに相応の理由がある

差別=扱いの差があることに相応の理由がない

ということだろう。区別、差別の議論よりも「相応の理由の有無」こそが議論の本質なのだろう。

この「区別」「差別」を語ると、「機会の平等=資本主義」と「結果の平等=共産主義」というキーワードが思い浮かぶ。

性善説的に結果の平等をめざし、労働成果による報酬の「区別」を「労働者階級への差別」とみなした共産主義の壮大な実験は惨憺たる大失敗に終わったのはソ連の崩壊や、もはや共産主義ではない中国を見れば一目瞭然である。多分に皮肉なことに「結果的に失敗」に終わっている。「徒競走で順位をつけるのは差別だから、ゴール手前でお手てつないでゴールイン」というウワサを聞いたことがあるが、もし事実だとすれば共産主義的「結果の平等」な考え方だ。現実社会に出れば実力や競争による区別が存在するのに、学校の中だけでそんな悪平等を教えても仕方があるまいに(呆)。

「成果を出したら何らかの報酬で報われる」というほうが人類にとっては自然な形なのだろう。「機会の平等=資本主義」が絶対的正解だとは言わないが、少なくとも「結果の平等=共産主義」よりマシなのは間違いあるまい。

もし、理想的な共産主義を成立させうるとしたら「とても民度の高い民族」でなければならないだろう。日本人は世界でも有数の民度の高い民族だが、今の日本人でも共産主義は成立しないと思う。というか、地球上の民族で共産主義を成立させうる民度の高い民族は現時点では存在しないと思う。

なお、「機会の平等=資本主義」の弱点はまさに「結果として大差がつきすぎてしまう」ことだ。キーワードとしては「相応か相応ではないか」だ。その結果としての大差を是正しようとしたのが「結果の平等=共産主義」の思想なのだろうが、これが失敗した理由は「原因と結果を取り違え、因果関係を逆に見たために人間の合理的納得性を無視してしまったため」だ。
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