机とテーブルの上の本の山を前にすると、私はときどき、古い映画やテレビで見た金田一耕助のしぐさを思い出す。
事件現場をひとわたり見回したあと、名探偵はすぐに謎を解くのではない。まず頭をかきむしる。あの、少し困ったような、しかし妙に執念のこもった手つきである。私の今の読書状況は、まさにあの手つきを必要としている。
退職したら、積ん読はもう少し減っていくのだろうと思っていた。自由になる金は減るのだから、本もそうそう増えまい、と。ところが現実は逆で、本は増える、やることも増える、時間も増える、そのうえ立ち止まって考える時間まで増えた。机とテーブルの上には、地層累重の法則を思わせるような本の層ができあがり、どれが新しい関心でどれが少し前の逡巡か、見ただけでは判然としない。
そこへさらに、池井戸潤『ハヤブサ消防団 森へ続く道』と、小野不由美『幽冥の岸』が加わった。前者は、いかにも読み出せば先へ先へと進みそうな顔をしている。後者は、そう簡単には踏み込ませまいという気配をすでに漂わせている。加えて、ミズン『言語の人類史』については、紙で読むべきか電子で読むべきか、その裁定がいまだ下っていない。本を読む以前に、本の読み方が未解決なのである。
こうなると、問題は冊数ではない。事件が複数同時に進行しているのだ。しかも、それぞれ性質が違う。読み始めれば進みそうな案件、腰を据えなければならない案件、そもそも捜査方針が定まっていない案件。名探偵でなくても頭をかきむしる。
映像の中の金田一耕助は、頭をかきむしりながらも、どこか呆れたように現場を眺めている。だが、その呆れは投げやりではない。むしろ、ややこしさを引き受ける覚悟の表情に近い。私の積ん読もまた、ただの未処理ではなく、関心がまだ生きている証拠なのだろう。本が本を呼び、問いが問いを連れてくる。その結果、読了した本は買った本、借りた本の二、三割にとどまるが、だからといって敗北とは言い切れない。現場に遺留品が多すぎるのは、事件がまだ終わっていないからである。
そう考えると、机とテーブルの上の本の山も、少し見え方が変わってくる。あれは乱雑な堆積であると同時に、思考の進行中を示す証拠物件でもあるのだ。もっとも、そう言ってばかりもいられない。『言語の人類史』を紙にするか電子にするかくらいは、そろそろ判決を出したい。名探偵だって、いつまでも頭をかきむしってばかりはいられないのである。
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