私の8/27の日記「言語の考古学から、妙なSF短編の種が生えた」のシチュエーションを、さらに考えてみた。
宇宙はこれほど広く、恒星も惑星も膨大にある。知的生命が地球だけとは考えにくい。なのに、なぜETIの明白な痕跡が見つからないのか――これがフェルミのパラドックス。その説明の一つが、ETIは地球文明を動物園の動物を見るように観察しているが、接触・介入を避けているとする動物園仮説である。
霊長類から枝分かれしたホモ族、つまりいわゆる原始人が、どのように言語を獲得し、使いこなしてきたか。その情報が、細胞内共生器官のようなものに、映画のように保存されている。しかも単なる記号列ではなく、視覚や聴覚の文脈ごとである。何を見ながら、何を聞きながら、誰が誰に向かって、どう学び、どう言い換え、どう伝えてきたかまで辿れる。
もし地球文明が銀河文明へ接続したとき、ETIからそうした記録を贈り物として手渡されたなら、言語学者にとっては、欣喜雀躍どころか死ぬほど嬉しい資料になるだろう。
もっとも、その編集前の元資料アーカイブは膨大すぎるはずだ。だが、ETI自身が編集した版と、人類の言語学者が編集した版とを比較すれば、ホモ属の言語獲得史だけでなく、ETIが何を重要とみなし、何を切り落とし、何を残すかという価値観まで、ある程度は逆算できるかも知れない。いずれにせよ、それはAIの補助なくしては扱いきれない規模のデータになる。
さらに思う。ホモ・サピエンスが幸いにしてグレートフィルターを突破したなら、まだ銀河文明に参加資格を持たない文明をウォッチする責任を、どこかで分担することになるのかも知れない。たとえ介入が禁じられていたとしても、見ている側はおそらく、どうかこの文明も突破してくれ、と祈るような気持ちで眺めるのではないか。
そう考えると、もし今この地球文明をウォッチしているETIがいるとして、彼らもまた似たような気持ちでいる可能性がある。
これもまた、動物園仮説のひとつの帰結なのかも知れない。
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