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2026年09月10日06:11

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物語の設計上の男女の仲

最近つくづく思うのだが、物語における男女の仲というのは、登場人物の性格だけで決まっているのではなく、作者がその作品で読者に何を気持ちよく味わわせたいか、という「設計」でかなり決まっている気がする。

たとえば『片田舎のおっさん剣聖になる』である。
あのベリル、本人にはドン・ファン気質がまるでない。ないどころか、あんなに朴念仁でよく日常生活が回るな、というぐらいである。ところが周囲の教え子や美女たちは、まるで「今だ、包囲網を狭めろ」とでも言わんばかりに虎視眈々と彼を狙っている。
普通に考えると変である。本人にその気がないのだから、そんなに集中砲火を浴びる筋合いもない。しかし物語の設計としては、とてもよく分かる。主人公が自分からギラギラすると少々うるさい。しかし本人が無欲そうで、しかも実力も人格もあるとなれば、周囲の女性が勝手に惚れてくれる形にした方が、たいへん具合がよい。つまりあれは「朴念仁&ハーレム」というより、「無欲を装置化した承認物語」なのである。

一方、『とんでもスキルで異世界放浪メシ』のムコーダには、周囲に女性がほとんど寄ってこない。これもまた不思議と言えば不思議だが、よく考えると少しも不思議ではない。あの作品がムコーダに与えたい幸福は、美女に言い寄られることではなく、うまい飯を食い、危険はそこそこに、しかし人間関係の面倒はなるべく少なく、フェルやスイと一緒に旅をすることである。
もしあそこへ美女が複数投入され、「ムコーダさん素敵です」「私もご一緒します」などと言い出したら、たちまち作品の味が変わる。飯どころではない。読者は醤油味の肉料理を見に来たのに、いつの間にか恋愛相関図を見せられることになる。ムコーダの周囲に女性がいないのは、彼に魅力がないからではない。作者が「あんたはもう恋愛方面で消耗せんでよろしい」と判断しているからであろう。ベリルの報酬が「モテを含む承認」なら、ムコーダの報酬は「面倒のない幸福」である。

さらに考えを進めると、『うる星やつら』の諸星あたるも興味深い。あれは逆に、本人が過剰なドン・ファン気質を前面に出しすぎる。いや、前面に出しすぎるというより、演技的に出していると言った方がよいかもしれない。少し黙っていれば、それなりに愛嬌も生命力もある男なのに、自分からせっせと「女の子大好きです!」という看板を振り回すので、普通の女の子は「はいはい」と引いていく。結果として、あの猛烈なラムだけが残る。
つまりあたるは、モテたいように見えて、実は自分で普通のモテを壊している。あれは本能というより芸であり、しかもその芸が、ラムだけを選別してしまう装置になっている。なかなか巧妙である。

『名探偵コナン』になると、話はもう少し気の毒になる。毛利蘭は、好きな工藤新一になかなか会えず、その一方で事件のたびに命がけで守ってくれる江戸川コナンがそばにいる。これで何も感じるな、という方が無理である。もちろん年齢設定がややこしいから、簡単に恋愛だとは言いにくい。しかし少なくとも情の重心が揺れないはずがない。しかも新一とコナンが実は同一人物であるという、ひどく意地の悪い設計になっている。
これは三角関係というより、「二辺しかない三角関係」である。図形が閉じない。蘭から見れば、遠くにいる本命と、近くにいて自分を守ってくれる小学生がいて、その二人がどうにも似ている気がする。しかし決定的な説明はない。こんなもの、心が消耗しないはずがない。

そしてこの構図を知っている服部平次である。
お前はもう少し何とかせんのか、と思う。もちろん秘密を勝手にばらすわけにはいかない。しかし「だから何もしません」で済ませてよい話でもない。少なくとも工藤新一に対して、「おどれ、蘭を何やと思っとるんや」と一発ぐらい言ってもよさそうなものである。
ここで遠山和葉が本気でこの事情を知ったら、たぶん激怒する。しかもかなり正しく激怒する。蘭の立場から見れば、「好きな人は会いに来ない、でも別の形でしょっちゅう命がけで守ってくる」という、情緒の処理に困る配置に放り込まれているのだ。和葉なら、「事情があるのは分かるけど、それで蘭ちゃんを放っといてええわけないやろ!」と平次ごと叱るに違いない。平次も工藤も、男子チームとしてまとめて怒られる未来が見える。

こうして見ると、物語の男女の仲というのは、本人たちの性格や魅力だけで決まるのではない。
この主人公には何を報酬として与えるのか。
このヒロインにはどこまで待たせるのか。
この関係は成就させるのか、宙吊りにするのか。
その作品の快楽は、恋愛承認なのか、生活満足なのか、追いかけっこなのか、気の毒なすれ違いなのか。
作者はそのへんを案外きっちり設計している。
読者は「なんでこの人、こんなにモテるんだ」とか「なんでこの人の周りには女の人が全然いないんだ」とか思うのだが、たぶん正しい問いは「この作品は、この主人公に何を与えたいのか」である。

感想としては、こういうことを考え始めると、恋愛模様そのものより、「この物語は恋愛を何のために置いているのか」が気になってくる。
ハーレムも、純愛も、すれ違いも、待ちぼうけも、ぜんぶ人間の自然現象のように見えて、じつはかなり人工的な配置なのだなあと思う。
そう思って眺めると、ベリルの朴念仁も、ムコーダの周囲の静けさも、蘭の気の毒さも、和葉の怒りそうな顔も、それぞれ非常によく出来た「設計図」に見えてきて、何だか可笑しい。
物語とは、つくづく、人の心の交通整理である。


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