信長の近くに仕えていたようなエリートたちが、木下藤吉郎のようなたたき上げの人物にどう反応するかを想像しているうちに、エリートにも二つの型があるのではないか、と思った。
一つは、仮に「装飾型エリート」と呼んでよい型である。
この型の人々の自信は、血筋や学歴や家格といった、過去に与えられた属性に強く依存している。ところが藤吉郎のような人物は、そうした属性の外側から、「今ここで現実を動かす力」をむき出しに示してくる。すると装飾型エリートは、自分の拠って立つ足場を揺さぶられる。まだ相手が低い位置にいるうちは侮蔑し、排除しようとする。しかし、相手が上がってしまうと、今度は逆に卑屈なほどへりくだる。これは結局、相手そのものへの反応である以上に、自分の拠り所が崩れることへの恐怖なのだろう。
もう一つは、「ノブレス型エリート」とでも呼ぶべき型である。
こちらは自分の地位を、特権というより義務と責任として受け取っている。だから、自分にない能力を持つ人物、たとえば泥臭い実務能力や突破力を持つ人物に対して、比較的素直に敬意を払うことができる。彼らにとって血筋や学歴は、自分の価値そのものではなく、何かを成すための手段にすぎない。目的はあくまで成果であり、秩序を支えることにある。だからこそ、真の実力者に出会ったとき、敵意よりも共鳴が起こりうる。
もちろん、現実の一人一人がこれほどきれいに二分されるわけではないだろう。
実際には、誰の中にもこの二つの成分がグラデーションとして混じっているはずである。ある場面では装飾型が顔を出し、別の場面ではノブレス型が優勢になる、ということもあるだろう。けれども、それでもなお、この二つの型を分けて考えることで、ある種の人間の反応はかなり見えやすくなる。
私自身、こういうことは経験から自然にわかったわけではなかった。
自分のいた職場が学校という、ある意味で中間的な場所だったからかもしれない。学校にも序列はあるし、資格や経歴も重んじられるが、権力や利害がむき出しで衝突する場面は、政治や軍事や巨大企業の中枢ほど露骨ではない。そのため、エリートの本性が、誰かの実力にさらされたときの反応として露呈する場面に、あまり出会わなかったのだと思う。
では何によってこれが見えたのか。
意外にも、それは経験そのものより、物語だった。森岡浩之『星界シリーズ』に出てくるアーブ帝国の貴族たち、あのノーブレス・オブリージュを体現するようなエリート像に触れたことで、私は初めて「エリートにも種類がある」と腑に落ちた。地位を誇るためではなく、引き受けるために持つ者たち。自分の序列に安住するのではなく、役割のために自分を律する者たち。その像を見たことで、現実の人間たちもまた、別の角度から見えてきたのである。
物語の威力は、やはり大きい。
現実から離れた空想のようでいて、ときに現実そのものでは見えなかった輪郭を、むしろはっきり照らし出してくれる。経験だけでは言葉にならなかったものに、形を与えてくれる。今回のことも、まさにそうだった。物語を読むとは、ただ別世界を楽しむことではなく、こちらの世界を見るための目をひとつ増やすことなのかもしれない。
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