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2026年09月05日17:08

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仏教の勉強の終焉

仏教の唯識から話をはじめてみます。
この教えについていえば
いわゆるスピリチュアル的に表現した場合
(仏教は無我または非我説であるという仏教論はさておいて)

アラヤ識は、
アカシックレコード(シナリオ)

マナ識は、魂たち

と似ています

しかしながら
唯識は
シナリオ(アカシックレコード)が
なぜ作られたのか
は説明できず

その作り手である根源的な大自我を明らかにしていません

つまり真の無明を
仏教は
原始仏教の時代から説明できていないのです

大自我から作られ
投影されている
表面的な煩悩や
表面的な認識論(五薀)しか説明できていません

したがって、修行は煩雑な瞑想のため、出家するしかなく、
煩悩をなくすにも長期の転生を必要とすることになります

原始仏教時代の釈尊ブッダはもともと、
毒矢が射られたなら
その矢がどこからきたかは問わず、矢をぬけばよい
という教法ですが、
それは逆にいうと
表面的な治療になるがために
つまり
投影された矢
をなんとかするレベルになるため

大自我のエネルギーの解体には
幻想の時間がかかりすぎるのです

唯識派はブッダが説かない形而上学に踏み込み、
アカシックレコードのような、
アラヤ識や魂のようなマナ識を
説きましたが
結局は、釈尊自体が、大自我の説明をしていなかったため
唯識の体系も
純粋非二元による恩寵が働かないため根本治療が不完全となり
癒しも表面的なものになり、その修行はとんでもない長期にわたることになるのでした。

結局アラヤ識を発見したところで
真の無明(大自我)のいやしの迅速化にはつなげることはできず意味がなかったのです。
そもそもの釈尊の修行システムの範囲にとどまるしかなかったのでした。

しかし、イエスの教えの真意といわれている
アコースインミラクルズというスピリチュアルにより
癒しの迅速化、つまりは、
より根本にちかい治療(神からの分離という大自我を
聖霊という神の記憶による真の赦しにより
より根本的に癒すこと)
が可能となったのでした。

(まとめ 唯識 スピリチュアル的な読み替え)

アラヤ識

シナリオ/アカシックレコード的な蓄積(そこでの種子とは、投影を生じさせる潜在的な情報でしかない。
真の無明のことではありませんでした)

マナ識
「魂」「個としての自己」という感覚

そして
投影された五識と意識(顕在的な六識)


(よりダイレクトなスピリチュアルメッセージとの出会いの可能性の例)

原始仏教 → 唯識 → ACIM → ナチュラルノンデュアリティ(メソッドの終焉)

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