スピリチュアルについての感想
スピリチュアルについて、仮説をかいてみよう
真の永遠とは、時間がずっと続くという意味ではない
時間の不在のことである
そして、永遠が時間的意味として語られるなら、永遠という想念自体が、もはや実在を意味しない
実在とは、時間や時間的永遠の不在であるから
そしてまた、空間も同様である
あるいは、実在を真の生命と語るなら
私や私にとっての世界というものは
真の生命とはいえない
生命からの分離や存在半分(主体、客体)という意味だからだ
それらはニセの生命であり
ナチュラル(真の生命)のなかの空想である
一瞥(いちべつ)的いやしにより、それらニセの生命はいやされることになります
また、一瞥の真の意味するところは、
一瞬実在を経験すること、というよりも、
在るがまま、という主体以前の、未経験、という平安のことをさす。時間や空間の不在のことでもある。
ナチュラル、真のふつう、真の常識、存在意識とも仮説できる
流行のスピリチュアル説では
私と宇宙(私と私の世界)は一つだとか、
私は宇宙の創造主だとか語られるが
それは大自我にすぎない
また、流行のスピリチュアル説では
私はおらず非二元からすべてが湧いている(大自我という催眠状態の説明なし)
や
宇宙スピリチュアルでは、1人1宇宙とかいう、
上記の意味での流行の非二元説とは矛盾したことも語られている
また、伝統仏教では
自我はなく五薀(ごうん)が因縁により生じている
と語られるが
五薀がなぜ生じているのかの説明は
無明が原因とされているが、その無明の説明は貪、怒、無痴という煩悩であるという説明にすぎない。
また、現象の性質について無知であるとされているが、そもそも、その現象がなぜ生じていたのかの説明がまったく抜けているのである
原始仏教から伝えられている
内容がそれだけなため
上座仏教やアビダンマや
大乗仏教(唯識など)も
すべてそれについては同様に説明があるわけがない
また、原始仏教の悟りは、出家者にかぎられるし、
大乗仏教では、とんでもない長い菩薩の修行時間を想定している
仏教では、認識をあれこれ区別して観察したりする煩雑な修行を説いている
しかし
そもそも真の認識とは、無条件、無努力の分割なきものであるから
わざわざ、区別してから解脱へという瞑想修行は
ある意味では遠回りであるともいえる
また、神智学では
進化という長々としたことが語られているが
そもそも完全な神が重要な?非実在の旅を作ること自体の意味が疑問視されるべきである
また、宇宙スピリチュアルには、ワクワクという説もあるが、
実在イコールすべてワクワク
ということも疑問視できる
実在は在り、あらためて創造することなどありえず、ワクワクは無邪気な空想能力にすぎないだろう
ワクワクという動機(活動性)や空想能力が
ただ在る実在という平安認識をもたらすと説明することは矛盾するだろう
実在におけるワクワクという動機は空想遊びの
動機だったのであるから
以上、仮説をのべさせていただきました。
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