昨日の日記の続きを、さらに連想していた。
どうも私は、トリックスターを演じる役者に惹かれるのかもしれない。
山口崇の徳川吉宗は、その好例である。
主役たる大岡忠相を加藤剛が端麗で有能な奉行として演じているからこそ、吉宗のほうは少しトリックスター的な、厄介ごとを持ち込む役回りとして設計されていたのではないか、という気がする。
養生所の医師を演じた竹脇無我も、これまた立派な人物だった。
そうなると、やはりあの世界には、ときどき秩序をかき回す存在が必要になる。
毎週出る必要はないが、いないと息が詰まる。
トリックスターとは、物語の中で既存の秩序や常識を破り、新しい変化や展開を生み出す「いたずら者」や「異端児」のことをいう。
典型的な例を挙げるなら、『真夏の夜の夢』の妖精パックだろう。
時代劇には、主役でありながらトリックスターでもある、というとんでもない配置の作品がある。
『必殺』である。
『仕掛人』や『仕事人』などを思い起こすと、やはり中村主水の存在は大きい。
剣の腕が立ち、同心としての職分もあり、情にも厚い。
それでいて奉行所では昼行灯を装い、家では女房と姑に頭が上がらない。
主役がトリックスターを兼ねるという構図は、やはりただごとではない。
『必殺』というシリーズにとって、中村主水は欠くべからざる存在だったのだと思う。
『剣客商売』もまた面白い。
秋山小兵衛を演じる北大路欣也版は、立派すぎて隙がない。
もちろん、それはそれで見ごたえがあるのだが、少し完成されすぎている感じもある。
その点、藤田まこと版は、女房おはるに尻に敷かれるようなコミカルさも残していて、人物が柔らかい。
小兵衛ひとりというより、小兵衛とおはるの夫婦が、どこかトリックスターのような働きをしていたのではないか。
だからこそ、あのシリーズは何シーズンも続いたのだろう。
そこでは、息子の大治郎と三冬の夫婦もまた面白い。
いまはまだ、どこかぎこちない新婚夫婦に見える。
だが、時がたつにつれて、親父どのの夫婦のような「味」が出てくるのではないか、という期待を抱かせる。
剣客としてだけでなく、夫婦としても育っていく若い二人を見ている楽しさがあった。
さらに連想は伸びていく。
藤田まこと版『剣客商売』で二代目秋山大治郎を演じた山口馬木也。
そこから、彼が主演した『侍タイムスリッパー』へつながる。
すると今度は、かつて時代劇のメッカだった東映太秦映画村で、いまは時代劇がほとんど作られなくなっている、という危機意識まで思い出される。
考えてみれば、小説の側には、まだまだ良質な時代小説がある。
しかも、それが映像化されないまま、たまりにたまっている。
この感じは、少しスノーボールアース終焉のシナリオに似ている。
本来ならある程度は循環し、消費されるはずのものが、うまく流れずに蓄積していく。
たとえば、いま私が読んでいる梶よう子の「水上草介」シリーズ。
小石川薬草園同心という設定だけでも魅力がある。
植物の世話や観察に通じ、薬草の知識に特化した侍というのは、いかにも映像向きの面白い素材だと思う。
剣と捕物だけではなく、江戸の自然や医療や生活の空気まで映せるだろう。
それなのに、こういう題材が映像化されないのは、なんとももったいない。
アメリカの大衆文学については詳しくないが、さすがに現在では「西部劇小説」はかなり衰えているのではないかと思う。
それに比べると、日本の時代小説は、舞台こそ江戸時代、それも江戸に偏りがちとはいえ、まだまだ書かれ、まだまだ読まれている。
つまり原作の供給そのものは、いまでもかなり豊かなのである。
にもかかわらず、映像の側がそれを十分に受け止められない。
二酸化炭素が消費されず、温室効果が暴走して、長く続いたスノーボールアースが終わる――そんな比喩で、未映像化の時代小説が積もり積もっている現在を連想してしまう。
ただ、もしこれから時代劇映画や時代劇ドラマが再び活性化するとして、そのときまでに間に合うのだろうか、という不安もある。
時代劇を支えるのは、原作だけではない。
考証を担う人、撮影所の技術、衣装や所作の蓄積、殺陣を支える切られ役、そうしたインフラ全体があって、初めて一本の時代劇が成り立つ。
しかも、それは一朝一夕で作り直せるものではない。
これまで積み重ねられてきた蓄積があまりに大きいからこそ、それを失ってしまうことは巨大な損失だと感じるのである。
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