全部読み切る前に、ここまで怒りがこみ上げてくるタイトル付けに出会ったのは初めてかもしれない。
まず、この本で置かれている「考察」の定義はこうだという。
考察=作者が提示する謎を解くこと
批評=作者も把握していない謎を解くこと
これを読んで、私はかなり腹が立った。
『考察する若者たち』というタイトルを見たとき、私はもっと広く、もっと自由な意味での「考察」を扱った本なのだと思っていたからだ。
「考察する若者が増えた」と聞いて、それを真に受けて少しうれしくなっていた私の期待をどうしてくれるのか、と思う。
いっそタイトルは、こう書き直してほしい。
「作者の設けた正解を、当てるゲームに熱中する若者たち」
私がいちばん怒っているのはここだ。
「考察する」という言葉を、筆者の勝手な思惑で狭めないでほしい。
広辞苑では、「考察」は
物事を明らかにするためによく調べて考えること
とされている。
この意味からすれば、「考察」はもっと広い営みのはずだ。
作者があらかじめ用意した答えを当てることだけに限定されるものではない。
たとえば、こんな問題を考えてみる。(正解は一つですか?)
4÷3は?
�� 1あまり1
�� 1と3分の1
�� 1.333333333……(1.3の3の上に黒丸←循環小数マーク)
この問題を出されたのが小学校低学年なのか、高学年なのか、中学生なのかで、出題者が想定する「あるべき答え」は違ってくるだろう。
けれど、その想定正解以外の答えに一律に×をつけるのが、数学的に、あるいは教育的に正しいとは、私には到底思えない。
正解は一つではないかもしれない。
あるいは、そもそも正解がないのかもしれない。
そうした可能性まで含めて考えることこそ、「考察する」という行為なのではないか。
昨日の日記で脳内BGMにさせてもらった、leccaさんの「My measure」の歌詞を一部そのまま借りるなら、
何が正解なんて分からない
どれか一つだけってこともない
まさに、そういうことだと思う。
この言葉を借りて言えば、三宅さんのこのタイトル付けを「正解」と受け取る人もいるだろう。
けれど、私のように「それは違う」と受け取る人間もいる。
私が言いたいことは、結局この下の一行に尽きる。
どちらが正しいかは、自分の頭で「考察」してほしい。
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