あだち充『タッチ』の上杉和也は、高校一年の夏、地区予選決勝戦へ向かう途中、トラックにはねられそうになっていた子どもをかばい、交通事故で命を落とした。
衝撃そのものの場面は直接には描かれず、達也と南の慟哭も、電車の通過音などによってかき消される。
そのことで、かえって悲嘆の強さが際立っていたのを覚えている。
ただ、ああいう重い場面に出会うと、こちらの頭は時に妙な逃げ道を探す。
不謹慎とは承知しつつ、当時ふと想像したのは、実は子供をかばって死んだのは兄の達也で、残った和也が達也として生きることを決めた、という入れ替わりの仮想である。
もちろん、そんなものは本筋とは何の関係もない。
けれど、和也は南の気持ちが、いかにも頼りない兄の達也のほうへ向いていることを、どこかで察していたのではないか。
そのうえで、悲劇の瞬間にとっさに入れ替わりを決意した――などと考え始めると、妙に話がつながってしまう気もする。
まことに罰当たりな妄想である。
とはいえ、この仮想を少しだけ転がしてみると、いちばん騙しにくいのは誰か、という話になる。
まず上杉家の両親がいて、隣家の浅倉南がいて、さらにキャッチャーの松平孝太郎や、ボクシング部の原田正平のような、近くで見ている人物たちがいる。
本当に和也の思惑どおり皆が騙されたのか、それとも気づいたうえで騙されるふりをしたのか――などと、つい余計なことまで考えてしまう。
まあ、こういうことを一度も考えなかった漫画ファンばかりだった、とは思わない。
もっとも、そんな仮想を脇へ置いても、『タッチ』の重さは十分に残る。
兄と弟との相克を、達也にも読者にも改めて考えさせるために、西尾監督を一時療養させ、その代わりに現れたのが柏葉栄二郎だった。
しかも西尾監督は、その兄である栄一郎を呼んだつもりだった、というあの導入は、やはりよく計算されていたのだと思う。
あのあたりから、作品の重心は単なる青春野球漫画ではなく、もっと苦い人間関係のほうへ深く傾いていく。
そして、仮想を全部チャラにして、正真正銘の達也と南の話として考えても、私はやはり、二人はそう簡単には結ばれないだろうと思う。
三角関係の一角が、ああいう形で失われてしまった以上、その不在は消えない。
原田正平とその姉が、そのあたりをかなりシビアに見ていた場面があったが、あれには私も同感だった。
そう考えると、『タッチ』の設定の重さは際立っている。
同じ野球漫画でも、たとえば星飛雄馬の甲子園編の「血染めのボール」のような、いかにも劇的ではあるがどこか浅く見える仕掛けとは、かなり質が違う。
『タッチ』の重さは、事件の大きさだけではなく、その後に残る感情の尾をきちんと描いていたところにあるのだろう。
その反動もあってか、あだち充は『H2』などでは、もう少し明朗な構造の野球漫画を描きたかったのかもしれない。
それでも、水島新司の『ドカベン』とはまた違う、あだち充独特のほろ苦さは、やはりその後の彼の野球漫画にも残っているように思う。
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