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2026年08月07日07:13

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言葉が通じることと、理解し合えることは別なのだろう

ドリトル先生について考えていて、ふと思った。
動物と話ができるといっても、その会話の中身は、相手の動物種ごとの知能や経験の範囲に制約されるはずである。

たとえばリスなら、餌の好みや隠し場所、木の登り方のようなことは語れても、高度な推論までできるとは限らない。
自分の体の不調も、何となく「具合が悪い」とは分かっても、それがどこなのかは、触ってもらって初めて示せるかもしれない。
一方で馬のように身体感覚や訓練の蓄積がある動物なら、「左の後ろ足の蹄が痛い」くらいのことは、先生に伝えられるかもしれない。

そう考えると、ドリトル先生のいちばん凄い能力は、単に動物の言葉を理解することではないのではないか。
むしろ、自分が敵意を持たず、調子の悪い個体を助けようとする善意の存在であることを、相手の動物にきちんと分からせ、納得させる力こそが本質なのではないかと思えてくる。

このことから、ふとナウシカを連想した。
ナウシカもまた、ドリトル先生ほどではないにせよ、テトや傷ついた小さな王蟲にすぐ信頼される、不思議な力を持っていた。
ユパがそれを「不思議な力だ」と見ていたのも、単なる動物使いの技術ではなく、生き物に対して自分が害意を持たない存在だと、直感的に伝えてしまう力だったのだろう。

だからこそナウシカには、巨神兵すら警戒を解いたのかもしれない。
生き物と共鳴するナウシカは、この時代の人間や王蟲をはじめとする腐海の生き物たちとは、深いところで通じ合うことができた。
しかしその一方で、あらゆる生き物を道具として利用し、搾取しようとする「墓」のホモ・サピエンスとは、ついに理解し合えない存在だったのだと思う。

ここまで考えて、ようやく腑に落ちた。
『風の谷のナウシカ』の終盤で描かれていたのは、単に「言葉を交わせない存在」ではなく、むしろ言葉を交わすことはできても、なお理解し合えない存在だったのだと。
昔読んだときにも、頭ではそういうことだと思っていた。
けれど今になって、ようやくその意味がもう少し深く分かった気がする。

こういうことに今さら気づくのは遅いのかもしれない。
自分はずいぶん鈍かったのではないか、とも思う。
昔読んだ作品は変わらない。
それなのに、自分のほうが変わることで、作品の意味が違って見えてくる、だから読書には終わりがないのだろう。
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